仰信
提供: 新纂浄土宗大辞典
ごうしん/仰信
教えや仏の深意を、理解し思案せず、ひたすら仰ぎ信じること。解信の対。元暁撰『両巻無量寿経宗要』に「思量境に非る所以は直に仰いで経説を信ずべし。自ら浅識を以て思惟すべからず」(浄全五・八七上)というように仰信の語が見られる。源信は『往生要集』大文第三で、凡夫往生にあたり心を専らにするために何故に極楽を勧めるかという問に対して「仏意、測り難し唯だ仰信すべし。譬えば痴人の火坑に堕ちるがごときは自出すること能わず。知識、之を救うに一の方便を以てすれば痴人力を得て応に務めて速かに出ずべし」(浄全一五・六五下)と答えている。永観は『往生拾因』で「予、先賢を知らんが為に独り閑室に在りて西に向かいて目を閉じて合掌して額に当て励声に念仏して即ち一心を得たり。敢えて以て乱れず誠に聖言地に堕ちず。行者、仰信すべし」(浄全一五・三八六上)と言っている。法然は仰信という言葉を用いてはいないが、例えば、『選択集』三で「聖意測り難し、輙く解すること能わず」(聖典三・一一八/昭法全三一九)と言い、凡夫が仏の聖意を推測し慮って容易く理解するべきではないとする。その心は、仏の願(聖意)の不可思議をひたすら仰信すべきであるということである。良忠は『伝通記』玄義分記(浄全二・一三三上~下)で、善導が『観経疏』玄義分で「仰ぎ惟れば、釈迦は此の方より発遣し、弥陀はすなわちかの国より来迎したまう。かしこに喚びここに遣る。あに去らざるべけんや。ただ謹心に法を奉って畢命を期とし、この穢身を捨てて、すなわちかの法性の常楽を証すべし」(聖典二・一六三/浄全二・二上)と説くにあたって「是は仰信分なり。即ち地論の果分不可説に当たる」と言い「正しく仰信の入り易しを明かす」とし「正しく二仏の方便を仰信することを明かし」と解している。すなわち、仏の密意は仏果にある者だけが知りうるのであるから、唯ひたすらに釈迦・弥陀二尊の方便を仰信することを述べたものであるとしている。また良忠は『浄土宗要集聴書』末で「浄土の円教は仰信の一乗也、聖道の円教は解信の一乗也」(浄全一〇・二八〇下)とする。聖冏の『二蔵義見聞』八(浄全一二・五四五下)ではこの文言を紹介している。さらに大玄は『浄土頌義探玄鈔』上で「記主の所謂る仰信とは即ち是れ仏願を信じて而も疑わざるの謂いなり」(浄全一二・六〇〇上~下)とし「毫髪も疑い無き是れを仰信の一乗と名づく」「仏願力を信じて疑わず」とする。
法然は『東大寺十問答』(聖典四・五二九/昭法全六四四)で三心(安心)具足について「解釈の趣を談じて、念仏の信を取らしめん」とする「智具の三心」と「一向念仏して疑う思なく往生せんと思う」ところの「行具の三心」とをあげている。また、法然は『諸人伝説の詞』で「今度の生に念仏して来迎に預からん嬉しさよと思いて、踊躍歓喜の心の発りたらん人は、自然に三心は具足したりと知るべし」と禅勝房に語っている。これは、「仏願を信じてしかも疑わざる」(聖典四・四八五/昭法全四六一)ゆえに、情感的にうれしさを伴って自然に具わる三心は、仰信の三心ともいえる。
【参照項目】➡解信
【執筆者:藤本淨彦】