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興福寺

提供: 新纂浄土宗大辞典

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こうふくじ/興福寺

奈良市登大路町。法相宗大本山。南都七大寺の一つであり、和銅三年(七一〇)平城京遷都に伴い、藤原不比等が建立した。本尊釈迦三尊像は、藤原鎌足の念持仏と伝えられ、藤原氏の氏寺として栄えた。春日社を支配下に入れて、大和国の大領主として強大な僧兵団を編成し、春日神木をくりだす強訴を行った。治承四年(一一八〇)に平氏の南都焼討にあい全焼したが、早い復興により鎌倉文化を生み出した。近世には二万一千石の寺領を拝領したが、享保二年(一七一七)の大火で、ほぼすべてを焼亡した。近代に入ると、神仏分離によって春日社との分離解体が執行されて、致命的な打撃を被り、無住寺院となった。その後、明治一四年(一八八一)に復興が許され、現在に至る。現存する最古の建築は、鎌倉時代に再建された三重塔(国宝)である。仏像には、白鳳時代の山田寺仏頭、天平時代の八部衆像・十大弟子像などに加え、鎌倉時代の無著世親像、不空羂索観音像などがある(いずれも国宝)。


【参照項目】➡法相宗貞慶興福寺奏状


【執筆者:西村玲】