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神仏分離

提供: 新纂浄土宗大辞典

しんぶつぶんり/神仏分離

慶応四年(一八六八)三月一三日の神祇官復興、同一七日の社僧の復飾、同二七日の太政官布告による神仏判然令をはじめとした明治政府による神道仏教を明確に離す処置をいう。平安期より約千年にわたって続いた神仏習合に終止符を打ち、神武創業に帰ることを目的とした一連の政策で、具体的には、寺院にあった御神体や神社にあった仏像仏具を取り除くなどのことをした。神仏分離は儒学の名分論を思想的背景に持ち、江戸時代初期には会津藩や水戸藩、岡山藩などで神仏分離政策が行われた。江戸後期には国学の影響を受けた為政者らによって各地で同様の政策が見受けられるようになり、明治新政府によって全国規模となった。一般的に神仏分離廃仏毀釈を引き起こしたと考えられているが、その因果関係は必ずしも一様ではない。というのも、神仏分離廃仏毀釈の関係性は地域によって異なっていたからである。たとえば薩摩藩や水戸藩では神仏分離と連動して激しく廃仏毀釈が行われたが、弘前藩などでは、神仏分離は行われたが廃仏毀釈は行われなかった。そうした地域にも廃寺はあったが、主に藩の財政政策に起因してのことであった。このような事実をふまえ、近年の研究では神仏分離廃仏毀釈を分けて考える説が支持を集めている。一方、明治初期には政府の主導で、神社整理や神職組織の改変が行われている。明治四年(一八七一)の太政官布告「官社以下定額・神官職制規則」により、神職の世襲制は禁止され神職から離れた者も少なくなかった。また、神社の社格制度導入により、多くの地域で神社の統廃合が行われた。安丸良夫は「廃仏毀釈といえば、廃滅の対象は仏のように聞こえるが、しかし、現実に廃滅の対象となったのは、国家によって権威づけられない神仏のすべて」であり、「仏教よりもさらに厳しく抑圧されたり否定されなければならないのは、民俗信仰」だったと指摘している。このことからも分かるように、神仏分離を含む明治初期の一連の宗教政策は、近代化に向けての体制作りや財政再建のために、仏教とともに神道をも対象にしていたのである。つまり、神仏分離神道仏教の対立という図式以外に、新国家体制に向けての宗教政策の布石としても考えなければならない。


【参考】圭室文雄『神仏分離』(教育社、一九七七)、安丸良夫『神々の明治維新—神仏分離と廃仏毀釈』(岩波書店、一九七九)、田中秀和『幕末維新期における宗教と地域社会』(多賀出版、一九九六)


【参照項目】➡神仏習合廃仏毀釈


【執筆者:松野智章】