戒
提供: 新纂浄土宗大辞典
かい/戒
仏教に帰依したすべての者が本来的に守らなければならない行為。戒めとして遵守することを誓う事項。ⓈśīlaⓅsīla。尸羅などと音写される。原語は性格、傾向、習慣を意味する言葉で、習性や反復的に行う行為全般を指していたものが、次第に、繰り返し行われる善なる行為に限定して用いられ、「道徳的な生活習慣」を指す語となった。中国から日本にかけての仏教では、戒(シーラ)と律ⓈⓅvinaya(ヴィナヤ)とを結びつけて、戒律という語が使用される事例が多くみられるが、インド仏教ではこの二語を結合して用いる事例(「シーラ・ヴィナヤ」なる語)はなく、本来は別々に使用されていた語・概念であることに注意しなければならない。戒(シーラ)は、仏教に帰依した者が、一人の仏教徒として自律的に守るべき事項であり、律のようにそれを守らなかったからといって罰則が課されるわけではない。あくまでも行為者個人の問題として、その行為の結果が当該者に帰結するだけである。ただし仏教徒にも様々な立場があり、それぞれの立場によって、遵守すべき戒も異なる。仏教に帰依しただけの在家信者(優婆塞・優婆夷)の場合、帰依を表明するとともに「五戒(不殺生、不偸盗、不邪婬、不妄語、不飲酒)」を守ることを誓う。また、在家の信者がひと月に六日(六斎日)、遵守することを誓って実践する「八斎戒(不殺生、不偸盗、不邪婬、不妄語、不飲酒、不坐高広大床、不塗飾香鬘歌舞観聴、不非時食)」や、比丘・比丘尼になる前段階としての沙弥・沙弥尼が守るべき事項としての「十戒(不殺生、不偸盗、不邪婬、不妄語、不飲酒、不坐高広大床、不塗飾香鬘、不歌舞観聴、不非時食、不畜金銀宝)」などもある。なお、比丘や比丘尼が守るべき事項として、しばしば「二百五十戒」「五百戒」という表現が用いられるが、厳密には、これらは戒ではなく律である。律、すなわち比丘や比丘尼が集団生活を送る上で遵守すべき生活規則の一つ一つは、通常「学処(ⓈśikṣāpadaⓅsikkhāpada)」と呼ばれ、戒と呼ばれることはない。ただし、中国においてはこの峻別が十分には徹底されず、本来は律に該当し、学処として判断すべき項目が、戒と訳される場合が多々あり、「二百五十戒」といった訳語も残されている。この理解は日本の仏教にも踏襲され、現在でも戒と律を同一視して考える事例は多くみられる。したがって、戒、戒律といった言葉が使用される場合は、その語がシーラの意味であるのかヴィナヤの意味で用いられているのかについて、注意を払う必要がある。
【参考】平川彰『原始仏教の研究』(春秋社、一九六四)、佐々木閑『出家とはなにか』(大蔵出版、一九九九)、松尾剛次他編『思想の身体 戒の巻』(春秋社、二〇〇六)
【執筆者:山極伸之】