韋提希論
提供: 新纂浄土宗大辞典
いだいけろん/韋提希論
『観経』に登場する主要人物である韋提希についての、聖道諸師と善導の見解の相違に関する議論の総称。具体的には①韋提希が『観経』中において無生法忍を獲得する時点に関する議論、および②韋提希がもともと菩薩なのか、それともあくまで凡夫なのかという、韋提希本人の階位に関する議論などをいう。
[韋提希得忍の時点]
浄影寺慧遠は『観経義疏』において、『観経』内の時間が経典の叙述通りに展開していくものと理解し、韋提希の得忍は『観経』における釈尊の教説終了時をもって韋提希と五〇〇人の侍女が極楽世界を見て無生法忍を獲得したとの理解を示している(浄全五・一九八下/正蔵三七・一八六上)。この慧遠の理解には、『観経』の科段と、釈尊説法終了時における得忍という二点が大きく作用している。慧遠は『観経』の科段について、正宗分を「ただ願わくは、世尊、我が為に広く憂悩なき処を説きたまえ」(聖典一・二九〇/浄全一・三八)から「無量の諸天は、無上道心を発す」(同三一三/同五〇)までと設定し、正宗分の内容を①韋提希の光台現国、②釈尊説示の三種浄業と十六観、③釈尊説示後の利益と捉え、韋提希は釈尊による諸実践行の説示を通じて得忍したものと理解している。一方、善導は『観経疏』玄義分で韋提希の得忍について、無生法忍獲得の条件が見仏であるとするならば、韋提希は第七観の冒頭箇所において、既に阿弥陀仏と観音・勢至両菩薩を目の当たりに拝していることから、この時点で無生法忍が獲得されており、釈尊が韋提希に対して諸仏国土を感見せしめた光台現国での得忍ではないと主張している(聖典二・二九/浄全二一二下~三上)。つまり善導は『観経』の時間の進行を意図的に変更し、第七観冒頭と『観経』末尾を同時間の出来事として捉えている。
[韋提希権実論と韋提希凡夫論]
また慧遠と善導は韋提希本人の階位についても解釈を大きく異としている。慧遠は、韋提希は釈尊の教説の聴聞によって無生法忍を獲得することから、その実は大菩薩であって化身として女性の姿を有する存在と理解している(浄全五・一八三上/正蔵三七・一七九上)。つまり慧遠は韋提希が無生法忍を獲得するという一点を根拠として、韋提希の実体を大菩薩と説示している。これは慧遠が無生法忍の階位について、菩薩の修道階位中の第七・第八・第九地と極めて高位に理解したことに起因するものである。慧遠はこの無生法忍解釈を前提とした韋提希の理解を行い、韋提希自身はもともと大菩薩でありつつも、『観経』開顕を目的として意図的に凡夫の姿を有する存在として位置付けた。これに対して善導は『観経疏』序分義で「仏、韋提希に告げたまわく。汝はこれ凡夫にして、心想羸劣なり。いまだ天眼を得ざれば、遠く観ること能わず」(聖典一・二九二/浄全一・三九)という経文を注釈する際に、韋提希は大菩薩などではなく、あくまでも一凡夫であることを主張し、慧遠の所説に強く反論している。また善導は、韋提希が獲得した無生法忍の階位について喜忍・悟忍・信忍という三忍の内容を有する「十信中の忍」と設定し、しかも「十解や十行以上の階位に位置する忍ではない」と説示し(聖典二・七一/浄全二・三三上)、慧遠の所説を否定している。善導は韋提希を神話的存在としてではなく、実在の一凡夫として認識したうえで、凡夫が現生中において成仏する可能性は皆無であると捉えていた。だからこそ『観経』で釈尊が説示する無生法忍を、釈尊の聖力が加わることで韋提希は阿弥陀仏を感見し、現身において阿弥陀仏と相見えることによって、往生が確実かつ決定となり、凡夫が現身中の見仏を起因として獲得可能な階位として設定したのである。
【参考】柴田泰山『善導教学の研究』二(山喜房仏書林、二〇一四)
【参照項目】➡韋提希
【執筆者:柴田泰山】