法性
提供: 新纂浄土宗大辞典
ほっしょう/法性
物事の動かしようのないあるがままのすがた。物事の本来的なあり方。物事の根本的な性質。絶対法則。ⓈdharmatāⓅdhammatāⓉchos nyid。異訳に法爾、法然があり、同義語に実相、実際、真如、如性などがある。『雑阿含経』三〇に「如来、世に出ずるも、及び世に出でざるも、法性は常住にして、彼の如来、自ら知りて等正覚を成じ、顕現し演説し分別し開示す。いわゆるこの事有るがゆえに是の事有り。是の事起るがゆえに是の事起る」(正蔵二・二一七下)とあり、仏陀の覚りの内容を縁起の法性としている。縁起の法性は、学派・宗派によって解釈が異なり、大乗仏教では空性、唯識性等とされる。縁起する存在が、生じては滅する無常な有為法であり、法性は不変のものとも考えられることから、縁起するそれぞれの存在と、縁起なる法性とを別のものと考える説もあるが、仏教では基本的に存在と存在を貫く法則・性質とを別のものとは見ない。それは法然『往生要集釈』での、「法性平等にして浄穢を離ると雖も、また染浄縁起、因縁仮有を離れず」(昭法全一七)との説にも表れている。これは「法性がすべての存在に行き渡っているという点から見ればすべての存在に区別はなく、汚れも浄化もないが、『煩悩や業の汚れによって輪廻の苦があり、煩悩や業の浄化によって苦の滅がある』という、原因と結果から成り立つこの仮の世と、法性とが別個にあるわけでもない」との趣旨である。大乗仏教では浄土、仏身、三宝などの重要な概念を、最も高度に突きつめた立場から解釈する場合には必ず法性と同一視される。善導は浄土を指方立相の立場から姿形のあるもの(有相)と認める一方で、浄土への往生を「この穢身を捨てて、すなわちかの法性の常楽を証すべし」(『観経疏』玄義分、聖典二・一六三/浄全二・二上)として浄土を法性そのものであるかのようにも述べる。しかし法然はあくまで指方立相の立場から、浄土を有相の報土、阿弥陀仏を有相の報身とし、法性法身とは述べない。この点は親鸞と大きく異なる。
【執筆者:本庄良文】