青龍寺
提供: 新纂浄土宗大辞典
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せいりゅうじ/青龍寺
一
京都市東山区下河原通八坂鳥居前下ル三丁目南町。見性山。京都教区№一二八。桓武天皇の勅命により延暦八年(七八九)に小塩山(西京区大原野)に大宝寺として建てられ、平安遷都と共に現在地へ移ったがその後荒廃、法然の門弟見仏が引導寺として再興したと伝える。『四十八巻伝』一〇には、建久三年(一一九二)後白河法皇の追善菩提のために見仏が、心阿・住蓮・安楽らと当寺で六時礼讃を修し、これが六時礼讃共行の始まりと記されている。その後兵火に罹り焼失したが、寛永年間(一六二四—一六四四)に知恩院三二世霊巌の命により再興され、見性山青龍寺と改称した。本尊は伝最澄作の伽羅観音。洛陽三十三ヶ所観音九番札所。当寺には念仏石と呼ばれる大小二個の隕石があり、六時礼讃修行の時、法然は小石を、門弟は大石を叩いて調子を取ったと伝えられる。
【資料】『蓮門精舎旧詞』二(続浄一八)、『浄土宗寺院由緒書』上(『増上寺史料集』五)
【参考】宅崎源承『八坂青龍寺誌』(青龍寺、一九三一)
【執筆者:曽田俊弘】
二
大津市坂本。天台宗(知恩院管理)。法然が一八歳から四三歳の浄土開宗に至るまで行学を修めた遺跡。新撰元祖大師二十五霊場第二〇番。比叡山西塔北谷にある比叡山五別所の一つ黒谷にある。開基は良源と伝え、禅瑜も住した。久安六年(一一五〇)法然は当寺を訪ねて叡空の門に入り、叡空入寂まで師と南北に坊舎を並べて住んだ。文明一五年(一四八三)天台真盛宗開祖の真盛は当寺に隠遁し念仏を修した。元亀二年(一五七一)織田信長の焼き討ち前の比叡山古絵図には本堂、浄名居士、法然坊、鐘楼が描かれている。本堂は慶長一八年(一六一三)再建、元禄元年(一六八八)改築。報恩蔵(経蔵)は宝永二年(一七〇五)再建で明版一切経を蔵した。江戸期には法然の墓もあったが、法然坊は旧跡となっていた。明和三年(一七六六)刊の霊沢撰『円光大師御遺跡廿五箇所案内記』では「番外の第一番」の札所とされた。明治二六年(一八九三)十万人講社の勧進により堂舎が修復され、昭和四二年(一九六七)知恩院は青少年修練道場を建て、「おてつぎ運動」の一環として「おてつぎこども奉仕団」が毎夏研修を行っている。現在、本堂には本尊阿弥陀仏像、維摩居士像(国重要文化財)、良源像(同)・叡空像、法然像(鏡の御影)などを安置している。
【資料】『四十八巻伝』三・一三、『翼賛』四九、『西塔堂舎並各坊世譜』『山門名所旧跡記』『山門堂舎由緒記』(『天台宗全書』二四)
【参考】菊地勇次郎「黒谷別所と源空」(『源空とその門下』法蔵館、一九八五)、武覚超『比叡山諸堂史の研究』(同、二〇〇八)
【執筆者:山本博子】