一光三尊
提供: 新纂浄土宗大辞典
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いっこうさんぞん/一光三尊
仏像の一形式で三体一組の尊像が一つの光背を持つ形式。通常中尊の光背のうち、頭光と挙身光の周縁部が拡大されて両脇侍までを覆っている。脇侍はさらに個別の光背を持つこともある。四世紀頃中国で造立されはじめ、三国時代の朝鮮半島、飛鳥時代の日本にも類例が多く残されている。三尊の組み合わせは座像・立像が並存するなど様々である。日本では法隆寺金堂釈迦三尊像(国宝)がもっとも著名な作例であるが、この場合中尊の釈迦像は座像で、裳懸座を伴っている。如来及両脇侍立像(法隆寺献納宝物一四三号)は三尊とも立像の作例である。飛鳥時代以降一時衰退するが、平安末期から鎌倉時代になると善光寺本尊阿弥陀三尊像の模刻としてこの形式の像が各地に多く造られるようになる。縁起によると善光寺の本尊は、百済の聖明王が献上した阿弥陀・観音・勢至の像であるとされ、当時流行した疫病の原因であるとして物部守屋がこれを難波の堀に流し、本田善光が拾い上げて私宅に祀ったものであるという。生身の釈迦として著名な嵯峨清凉寺本尊釈迦如来立像(国宝)と同様、生身の如来像として古来名高く、厳重な秘仏とされている。このため今日直接その姿は確認できないが、図像集や模刻作例によってその姿を推測することができる。それによると三尊とも立像で、光背は火炎文の中に七つの化仏が表されている。本尊の台座は蓮肉部が高く盛り上がった特殊な蓮華座で、俗に臼形蓮台ともいう。両脇侍は鎌倉時代には珍しい多角形宝冠をいただき、胸の前で何かを包み込む形に両手を組んでいる。このような形式の像を日本では善光寺式阿弥陀と呼ぶ。光背の形式と文様構成は飛鳥時代の仏像にも通ずるもので、脇侍が何かを包み込むように両手を組み合わせる姿も同様である。三国時代の朝鮮半島や南北朝時代の中国・山東半島の遺跡からも類似した作例が発見されている。これらの事実から一般に流布している善光寺式阿弥陀の図像形式は、実際になんらかの古い仏像、あるいはそれを写した後世の仏像を模刻したものである可能性が推測されている。
【執筆者:近藤謙】