往生院
提供: 新纂浄土宗大辞典
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おうじょういん/往生院
一
長野市鶴賀権堂町。安楽山得行寺。長野教区№四〇。いわゆる善光寺七院の一つ。善光寺に、正治元年(一一九九)、法然が善光寺を参詣したとする記録があるが、その際の創建という。法然上人像を本尊とする。弘安二年(一二七九)、西町西方寺と同じく良忠の開山とする。寛永一九年(一六四二)の善光寺本堂焼失から寛文六年(一六六六)まで、善光寺如来が遷座し仮堂となった。これが権堂という地名の所以ともいわれる。
【参考】坂井衡平『善光寺史』下(東京美術、一九六九)
【執筆者:袖山榮輝】
二
熊本市池田。無量山泰安寺。熊本教区№一。開山は行基もしくは聖光とする。『授手印』序文(聖典五・一四)や裏書(聖典五・三五)に聖光自らが、「往生院において別時念仏を行う間に『授手印』を執筆した」と伝えるように、安貞二年(一二二八)に往生院において『授手印』が作成された。その後、現在の鍛冶屋町児童公園の辺りに移転し、さらに享保四年(一七一九)に現在地に移転し、同九年に現在の場所に本堂が建立されたと伝える。『授手印』執筆時の往生院を「旧往生院」といい、現在の往生院の管理のもと寺域の整備が行われ、境内には旧往生院歴代である聖護・教弁・源与の墓石が現存する。また最初に移転した場所を「古往生院」といい、『肥後国誌』や鍛冶屋町児童公園の横壁記念碑や大島泰信の『浄土宗史』(浄全二一・五〇九上)などに古往生院に関する記事が見られる。現在の往生院は古往生院一一代住職によって現在地に移転されたものであり、寺宝に聖光自筆『授手印』ならびに副本『授手印』、自筆本『授手印』鑑定書などがある。
【参照項目】➡末代念仏授手印
【執筆者:柴田泰山】
三
京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町。真言宗。法然の門弟念仏房の開創と伝える。『平家物語』一によると、平清盛の寵愛を受けた祇王が仏御前に寵を奪われ、妹祇女・母刀自(閉)とともに出家し、ここに庵室を結んだという。中世以降荒廃し、ささやかな尼寺として残り、祇王寺と呼ばれるようになった。明治初年(一八六八)に廃寺となったが、同二八年大覚寺に塔頭往生院祇王寺として再建。同時に南隣の滝口入道時頼隠棲の地といわれる往生院の子院三宝寺も滝口寺として再建された。
【資料】『四十八巻伝』四八、『翼賛』五二(浄全一六)
【執筆者:曽田俊弘】
四
京都市西京区大原野石作町にある浄土宗西山派三鈷寺の前身の名。源算は延久六年(一〇七四)正月一日に、自刻の阿弥陀如来像を本尊とし、小庵を造営し、名づけて往生院とした。応保二年(一一六二)には、観性が仏眼曼荼羅と釈迦・弥陀像を安置。また、三世に名を連ねる慈円は、建保(一二一三—一二一九)のころ証空に当院を付属する。その後、証空は当院を念仏道場とし、山の形を法具になぞらえて三鈷寺と号した。
【資料】『西山上人縁起』(『国文東方仏教叢書』一)
【参照項目】➡三鈷寺
【執筆者:東海林良昌】
五
東大阪市六万寺町。岩滝山六万寺。単立。天平一七年(七四五)、行基が四十九院建立の折、荒廃していた桜井寺の跡へ六万寺を再建した。聖武天皇の勅願所の一つで、創建当初は七堂伽藍がそろっていたが、九世紀末頃から衰退と興隆をくり返し、長暦三年(一〇三九)、念仏聖である安助が六万寺を再建し、名を往生院と号した。正平三年(一三四八)、楠木正成の子、正行が四条縄手(畷)の戦いで当寺に本陣を置いたが大敗し、その際当寺も兵火に焼け落ちた。一六世紀末頃浄土宗の僧浄泉が再興したが、現在は単立となっている。
【資料】『本朝高僧伝』、『拾遺往生伝』
【執筆者:藤野立徳】