隠遁
提供: 新纂浄土宗大辞典
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いんとん/隠遁
もとは中国の古典に見られる、世俗を超えた道理に通じた隠逸や隠士と呼ばれる人々が、山野や市井で、清貧にして名利にとらわれない生活をするあり方のこと。日本では、官位を辞し、都を離れ閑静な地に暮らし、風雅に富んだ生活を送る意味に用いられた。しかし、日本で顕著に見られる特徴は、隠遁と出家とが同義に用いられたことである。その用例が増加し始めるのは平安時代である。当時、比叡山などの大寺院は世俗化が進み、これを嫌った一部の僧侶達は隠遁の身となった。その一方、漢文詩文に通じたいわゆる文人貴族の中にも、仏教に大きな関心を抱き、隠遁という生活形態をとる者がいた。文人貴族達は、専門の養成課程を経た僧侶とは異なり、仏教教理や儀礼にこだわらず、執着を減らすことを修行とみなし、隠遁を仏道修行や往生の手段とした。鎌倉時代に入ると、『発心集』『撰集抄』『宝物集』『閑居友』『沙石集』『方丈記』『一言芳談』『徒然草』などの隠遁に基づいた文学作品が登場し、一大流行を見せた。さらに鎌倉時代の半ば以降、隠遁者に多く見られた墨染めの衣を着る者達が、説教僧や死者儀礼に携わる人々、芸能を生業とする人々にまで広がり、隠遁の思想は日本社会に内在化され、仏教のみならず文学・芸術・芸能にまで広範な影響を与えた。法然が『徒然草』などの隠遁に基づく文学作品に登場するのは、当時の社会的なイメージや期待が、隠遁者法然に寄せられていたことを示している。また、法然の『七箇条制誡』には、「予が門人の念仏上人らに告ぐ」(昭法全七八七)とあり、法然の門下には、隠遁を志し民間に念仏を説いた僧侶がいたことが窺われ、『一枚起請文』に見られる「一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらにおなじくして」(聖典四・二九九/昭法全四一六)という、一般的な学識にこだわらないとする見解は、隠遁の思想の系譜に連なる一面を持っており、法然のもとに集まった人々に広く訴えかける意味をも持っていたと言えよう。
【参考】桜井好朗『日本の隠者』(塙新書、一九六九)、小林昇『中国・日本における歴史観と隠逸思想』(早稲田大学出版部、一九八三)、神楽岡昌俊『隠逸の思想』(ぺりかん社、二〇〇〇)、大隅和雄『信心の世界、遁世者の心』(中央公論新社、二〇〇二)
【参照項目】➡遁世
【執筆者:東海林良昌】