僧階
提供: 新纂浄土宗大辞典
2018年3月30日 (金) 06:28時点における192.168.11.48 (トーク)による版
そうかい/僧階
一
中国における僧侶の階位制度。中国仏教における出家・度僧は、基本的に国家管理のもとで承認がなされた。まず有髪の童行となって仏典研究や修行をし、師の推挙や国家試験を受けて剃髪得度して沙弥となる。沙弥の段階で出家とみなされて(宋代になると童行も出家とする)、度牒を得て課賦が免除され、さらに具足戒(戒牒)を受けて大僧になる道をたどる。度僧には、経義の試験による試験度僧、皇帝の勅許・恩赦による特恩度僧、金銭によって度牒を得る進納度僧などがある。僧籍による管理は、国家からの干渉を良しとしない僧侶側からの反発もあったが、南北朝以後は制度として定着していった。中国においては、長老・上座・上首などの様々な尊称のほか、急激に増加した僧尼の管理や私度僧の取り締まりを目的として、国家が僧侶を官吏として任用して仏教教団の統制を行う僧官制度が南北朝から唐代にかけて整備された。北魏の官庁は監福曹(昭玄寺)と呼ばれ、長官には道人統(沙門統)、次官には都維那が就任し、地方組織もそれに準じた。北斉は昭玄十統の制度が整えられ、道綽の六大徳相承にも数えられる法上が昭玄大統となるなど、地論宗南道派の慧光門下の学僧が多く任命された。僧尼の統制は朝貢など外国の寺務を行う鴻臚寺が担い、功徳使が台頭する唐代初めまで機能した。隋代は北魏・北斉の制度を継承して、昭玄寺と大統・統・都維那の三役があり、外国僧主も任命された。唐代は主として三綱(上座・寺主・都維那など)が寺院の統制にあたり、また一時的ではあるが中央の僧官として十大徳が置かれ、三論宗の吉蔵や三綱の上座にある高僧が任命された。その後、地方では僧統・僧正などが形式上置かれていたが、中央では僧官制度が廃され、造寺・造経・翻経の仏教事業を監督する功徳使や僧録が勢力を伸ばし、実質的な管轄権を握った。宋代は左右街僧録司が教団を統括し、地方は唐代の制度に準じた。
【参考】鎌田茂雄『中国仏教史』五(東京大学出版会、一九九四)、山崎宏『支那中世仏教の研究』(法蔵館、一九七一)
【執筆者:工藤量導】
二
日本における僧侶の階位制度。古くは僧位あるいは僧綱といった。そもそも僧綱は僧尼を監督して、諸寺院を管理する職で、僧官ともいう。僧正・僧都・律師の位があり、これらは七世紀後半から確認できる。その後、僧都に大僧都と少僧都が定められる。貞観六年(八六四)には、法印大和尚位・法眼和尚位・法橋上人位の三位が新たに制定され、法印大和尚位が僧正に、法眼和尚位が僧都に、法橋上人位が律師に相当するとされた。僧位は天平宝字四年(七六〇)に良弁らが四位十三階の僧位を上奏したことにはじまり、この後、二色九階の僧位が制定された。これは最高位を大法師位とし、その下に伝灯位・修行位の二位をおく。さらに、この二位を法師位・満位・住位・入位の四つに分類し、これに属さないものを無位とした。修行位は叙任される人が少なかったため、後に廃止された。このような僧位の制定は、僧尼の身分を確定し、律令制的な仏教統治を行うためと考えられている。江戸時代になると、僧位・僧綱の叙任は各宗に任され、その規定は宗派ごとに異なっていた。さらに明治に至り、僧位・僧綱の制度は廃止され、僧侶の階位は各宗によって定められることとなった。
【参考】中井真孝『日本古代仏教制度史の研究』(法蔵館、一九九一)
【執筆者:石田一裕】
三
浄土宗教師の業績に応じて与えられる階級。「僧侶分限規程」(宗規第三四号)において僧階の名称および等級が定められ、「僧階、教階及び学階査定に関する規程」(宗規第七八号)で新叙任および進級の方法が定められている。僧階は六等級あり、上位から正僧正・僧正・大僧都・僧都・少僧都・律師となっている。浄土宗の宗徒または助教師で教師検定に合格し、伝宗伝戒を受け、年齢条件を満たした者は律師に新叙任され、その後の業績によって上級の僧階に叙任される。僧階の進級は毎一級とし、現僧階叙任後の経過年数、年齢、璽書伝授の有無などの基本条件を具備し、功績点を満たした者に対し精査の上、進叙任される。功績点については「功績点付加細則」(宗令第八六号)として別に規定されている。教師の座次は僧階の次第によるとされ、また被着する法衣の色も僧階によって決められており、大僧正は緋色、正僧正および僧正は紫色、大僧都および僧都は松襲色、少僧都および律師は萌黄色が原則である。なお、大僧正は浄土門主および法主の称号として用いられるもので、僧階、教階および学階を超越した僧侶最高位の称号である。
【執筆者:今岡達雄】