願行具足
提供: 新纂浄土宗大辞典
がんぎょうぐそく/願行具足
南無阿弥陀仏の六字名号には、行者の願と行がともに具わっていること。行願具足とも願行相扶ともいう。そもそもこの問題は、『観経』下品下生に説かれる臨終の十念をめぐって、それは遠い将来に往生するための一因となるだけで、この生で命終わり次生で即得往生とはならないという六世紀の摂論学派から批判されたこと(別時意)への対応であった。すなわち世親釈・真諦訳『摂大乗論釈』六に、「論に曰く、譬えば有るもの説くがごとし。もし人多宝仏の名を誦持せば、無上菩提を決定して更に退堕せずと。釈して曰く、これ懶惰なる善根の、多宝仏の名を誦持するを以て、上品の功徳に進むと為す。仏意は上品の功徳を顕わし、浅行の中に懶惰を捨て道を勤修せしめんと欲する為なり。ただ仏名を誦するのみに由りて、即ち退堕せずして決定して無上菩提を得るにはあらず。譬えば一金銭に由り営覓して千金銭を得るは、一日にして千を得るに非ず。別の時に由りて千を得るが如し。如来の意もまた爾り。この一金銭は千金銭の因と為る。仏名を誦持するもまた爾り。菩提より退堕せざる因と為るのみ。論に曰く、また有るが説いて言く、ただ発願に由りて、安楽仏土において、彼に往きて受生するを得と。釈して曰く、前の如く知るべし、これ別時意と名づく」(正蔵三一・一九四上~中)とあるように、仏名を称えることは菩提への遠因とはなるが、すぐさまこれを証得できるものではないことを、一金銭がしだいに増して、いつしか千金銭となることに譬えて論じている。また発願のみによる安楽仏土への往生も同じく別時であると論じている。善導は『観経疏』玄義分の会通別時意において、「問うて曰く、云何なる起行をか往生を得ずと言うや。答えて曰く、もし往生せんと欲せば、要ず行願具足することを須いよ、まさに生ずることを得べし。今この『論』の中には、ただ発願と言って、行有ることを論ぜず…今この観経の中の、十声の称仏は、すなわち十願十行有って具足す。云何が具足する。〈南無〉と言うは、すなわちこれ帰命、またこれ発願回向の義。〈阿弥陀仏〉と言うは、すなわちこれその行なり。この義を以ての故に、必ず往生を得」(聖典二・一八一~二/浄全二・一〇上~下)と述べている。善導は、願があろうと、そこに行が伴わなければ、しかるべき果報は得ることができないという摂論学派の主張を受け、願のみを問題にして、行については何も語らない同学派を逆に批判しつつ、願と行がともに具わっている口称念仏は往生の行となると主張している。また『観経疏』散善義に説かれる三心釈の最後にも「三心すでに具すれば、行として成ぜずということ無し。願行すでに成じて、もし生ぜずといわばこの処有ること無し」(聖典二・三〇〇/浄全二・六一上)として、三心(心業)を具足した念仏(口業)によって往生が成就すると説いている。
【執筆者:齊藤隆信】