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恩愛

提供: 新纂浄土宗大辞典

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おんない/恩愛

親子・夫婦・兄弟等の、互いにいつくしみあう情愛。一般に「おんあい」という。『無量寿経』下に「ある時は室家・父子・兄弟・夫婦、一りは死し一りは生じて、さらに相哀愍し、恩愛思慕して憂念結縛けつばくし、心意痛著してたがいに相顧恋これんす」(聖典一・二六四/浄全一・二五)とあり、『大方広円覚修多羅了義経』に「一切衆生は無始際より種々の恩愛貪欲あるによるが故に輪廻あり」(正蔵一七・九一六上)とあり、また法然が『登山状』で「あるいは妻子眷属まとわれて恩愛の絆切り難し」(聖典四・四九四/昭法全四一七〜八)と説いているように、親・兄弟などの間においては、互いに恩を感じ慈しむ想いが強く、恩愛の絆が断ち切れないので解脱の妨げになるとされる。『清信士度人経』(散逸)には「流転三界中、恩愛不能断〔脱〕、棄恩入無為、真実報恩者(三界の中を流転して、恩愛を断つ〔脱する〕ことあたわざれども、恩を棄てて無為に入るは、真実報恩の者なり)」(『四分律行事鈔』正蔵四〇・一五〇上/『法苑珠林』三〇、正蔵五三・四四八中/『諸経要集』四、正蔵五四・二九中に引用あるも、いずれも「恩愛不能脱」)と説かれており、恩愛を棄てて覚りの道に入ることが真に恩に報いることであるとする。法然は、比叡山修学の際、「母世にいまさんほどは、晨昏しんこんの礼を致し、水菽すいしゅくの孝を勤むべしといえども、有為を厭い無為にいるは、真実の報恩なりと言えり。一旦の離別を悲しみ、永日の悲歎を残し給うことなかれ」(『四十八巻伝』二、聖典六・一五)と言い、母親と離別したとされるが、『逆修説法』に「流転三界中」の偈を釈して、「父母の家を離れてその養を顧みず。頭髪を剃除して毀傷きしょうの戒めを犯し、めとらずして子なく、後なきの患いを致す。かくのごときは、しばらく恩を忘れ徳に背くに似たり。しかれども、その父母を引きて無為の門に入れ、終に二種の生死を出し、無上の仏位に登らしむるに至らば、豈に孝のまたこれに過るものあらんや」(昭法全三〇〇)と説き、その後、「また律の中に生縁奉事の法あり。いわく、父の貧しき者は寺内に置きこれを養い、母の貧しき者は寺外に置きてこれを養えと。『梵網経』に云く、〈父母師僧三宝に孝順し、至道の法に孝順す。孝を名づけて戒となす〉」と説いている点からみて、恩愛の絆は必ずしも断ち切るべきものではなく、むしろその絆をもって教化し、共に往生を期すべきであると捉えていたことが窺える。


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【執筆者:梶原隆浄】