野上運外
提供: 新纂浄土宗大辞典
のがみうんがい/野上運外
慶応三年(一八六七)七月二八日—昭和二〇年(一九四五)一月三〇日。縁蓮社載誉信阿。字は無方。周防国熊毛郡大野南村麻郷(山口県熊毛郡平生町大野南)に士族内藤兵右衛門求馬の三男として生まれる。明治七年(一八七四)柳井瑞相寺の竟誉運海のもとで出家し、幼名常人を運外と改め、のち運海の養子として野上家に入る。長じて浄土宗学山口支校に入り、傍ら運海について宗乗ならびに天台教学を学び、その後上京して同二〇年九月浄土宗学本校に入り、同二四年一一月には増上寺において運海より宗戒両脈を相承、翌二五年七月高等正科の業を修め、さらに大鹿愍成・勤息義城に師事して唯識・法相の学を修めた。同二七年七月専門科唯識部を卒業したが、向学の念やみがたく入洛したのち、高野山に瑜伽教如大僧正を訪ね、真言密教の研鑽に励んだ。同三二年七月五日静岡県駿東郡岡村御宿(裾野市御宿)荘園寺を経て、京都鞍馬口上善寺を董じ、同四三年四月二七日静岡宝台院に転住、三二世の法灯を継いだ。大正六年(一九一七)宗議会議員となった。同八年四月ラサ島(沖大東島)に出発して海外布教に従事し、ここに大念仏碑を建立、帰国後同一三年三月『和字絵入選択本願念仏集』を刊行した。昭和六年(一九三一)五月増上寺執事長となり、同八年九月三〇日には浄土宗執綱に就任したが、在任中門主孝誉現有の入寂に伴い、一時管長事務取扱として密葬をつとめた。同一三年執綱職を辞し宝台院に帰坊したが、同一五年一月の静岡大火により同院は灰燼に帰したため、丸子寿徳院に隠棲し、以来寺門(宝台院)の復興と興隆に尽瘁したが、病を得て、同二〇年一月三〇日没した。世寿七九歳。師は日頃から徳川家康の遺訓「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」を愛し、土曜日の念仏会のほかに自ら講師となって檀信徒や組寺の青年僧に『原人論』『俱舎論』『唯識論』『選択集』の講義をしたという。没後、増上寺より無礙光院の院家号が贈られ、同四四年四月大僧正が追贈された。
【参考】野上幸『野上家覚え書』(宝台院出版、二〇〇一)、宝台院編『野上運海 運外大僧正遺文集』(宝台院、二〇〇七)
【執筆者:野上智徳】