「聖聡」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
Seishimaru (トーク | 投稿記録) 細 (1版 をインポートしました) |
|
(相違点なし)
|
2018年3月30日 (金) 06:25時点における最新版
しょうそう/聖聡
貞治五年(一三六六)七月一〇日—永享一二年(一四四〇)七月一八日。大蓮社酉誉。酉師・酉公・聡師ともいう。増上寺開山。聖冏の弟子として五重伝法の実用化につとめ、多くの僧侶を育成して、浄土宗の中興に尽力した人。下総国千葉氏胤の子として武士の家に生まれた。幼名は徳寿丸といったが、加冠の後は胤明といった。早くから明見寺(千葉寺)で真言密教を学んでいたが、至徳二年(一三八五)横曽根談所(茨城県)で聖冏の談義を聞いて浄土宗に帰依し、以後瓜連常福寺の聖冏について勉学につとめた。明徳四年(一三九三)十八通の相伝を受けて独立し、武蔵に布教した。当時貝塚にあった古義真言宗光明寺を復興して浄土宗に改宗し、増上寺を建立した。聖聡はここを中心として布教に専心し、参集する弟子が多くなった。彼は門弟の教育に力を入れたばかりでなく、自宗他宗の僧侶を招請し、不断法問の道場にしたという。こうして隆盛になってゆく増上寺の様子をみた千葉氏、あるいは佐竹氏の一族は、喜んで浄財を寄付し、寺領を寄進したため経済的基盤も確立し、他の豪族たちからも帰依されるようになった。この間聖聡は、しばしば聖冏を訪問して浄土宗の奥義をたずねるとともに、戦乱で苦労していた師を見舞っている。また関西方面に旅行して法然をはじめ、祖師の遺蹟をたずねるとともに、布教を続けた。さらに驚くことは、多忙の生活の中で、二六部百数十巻に及ぶ著作を遺したことである。『三経直談要註記』四八巻、『当麻曼陀羅疏』四八巻、『往生論註記見聞』一〇巻、『法事讃私記見聞』三巻、『観念法門私記見聞』二巻、『般舟讃私記見聞』一巻、『徹選択本末口伝鈔』二巻、『教相切紙拾遺徹』二巻、『選択口伝口筆』一巻、『一枚起請見聞』一巻、『浄土宗名目不審請決』一巻、『浄土二蔵義本末不審請決』一巻、『浄土二蔵綱維義』一巻、『名号万徳鈔』一巻、『徹髄抄』一巻、『浄土金明集』一巻、『大原談義聞書抄見聞』一巻、『糅眼記』一巻、『論註私記鈔』一巻、『大綱鈔口筆』一〇巻、『五重拾遺抄』三巻、『浄土宗要不審請決』一巻、『糅鈔米金鈔』一巻、『浄土論蔵集』一巻、『三種劫量図記』一巻など。これらの著書を書いた聖聡の目的は、対外的には、浄土宗が寓宗であると決めつけた虎関師錬の説に対し、正統に独立した一宗であることを意義づけるためであり、対内的には、当時それぞれが主張していた鎮西流の正統をめぐる問題に対応するためであった。ことに関東では名越派良栄理本に対する意識が強く、互いにしのぎをけずる論戦を展開していた。結果的にみれば、それが浄土宗発展に大きな貢献をした。応永二〇年(一四一三)頃には聖冏を小石川に招く一方、武蔵地方の浄土教に刺激を与え続け、永享一二年七五歳で寂。浄土宗発展の上につくした功績はまことに大きい。数多い弟子の中、酉仰は増上寺二世となったが、慶竺は京都に上って知恩寺の一九世となり、のち知恩院二一世となった。了暁は飯沼弘経寺二世となったが、のち三河に進出して大運寺(現・大恩寺)を創建し、当地方における浄土宗の布教に大きな貢献をした。こうして聖聡は聖冏教学の発展につとめたが、弟子たちはそれをさらに展開させ、今日ある浄土宗の基礎を確立した。
【資料】『常福寺文書』、『増上寺文書』、『三縁山志』九(浄全一九)、『鎮流祖伝』(浄全一七)
【参考】大谷旭雄編『聖聡上人典籍研究』(大本山増上寺、一九八九)
【執筆者:宇高良哲】