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「最澄」の版間の差分

提供: 新纂浄土宗大辞典

 
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2018年3月30日 (金) 06:24時点における最新版

さいちょう/最澄

神護景雲元年(七六七)—弘仁一三年(八二二)六月四日。生誕年を天平神護二年(七六六)とする説もある。諡号しごう伝教大師叡山大師、根本大師、山家さんげ大師とも呼ばれる。日本天台宗の開祖。姓は三津首みつのおびと、幼名は広野ひろの。一二歳で近江の国分寺行表について出家。一四歳で得度最澄と名付けられ、延暦四年(七八五)四月に東大寺において具足戒を受け、七月には比叡山に入り『願文』を作る。鑑真請来の天台典籍を修学、『法華経』および天台教学の研鑽を志す。同七年、この地に寺院建立を決意。一乗止観院(後の延暦寺根本中堂)と号する。同一六年内供奉ないぐぶに任ぜられ、東国の道忠らの協力を得て写経事業を進める。翌年法華十講を始め、同二一年和気氏に招かれて高雄山寺(現在の神護寺)で天台の講義を行う。桓武天皇の帰依をうけ、勅を得て同二三年学生げんがくしょうとして空海らと入唐。道邃どうすい・行満より天台教学を授かり、翛然しゅくねんより牛頭ごず禅を、順暁より密教相承。日本最初の灌頂を行う。また弘仁三年(八一二)空海から灌頂を受ける。延暦二五年(八〇六)天台法華宗年分度者二名を請い認可され、この年をもって日本天台宗立教開宗としている。宮中での法論、九州や関東での灌頂などを行う一方、法相宗の徳一との「三一権実論争」のため『守護国界章』『法華秀句』等を著す。弘仁九年(八一八)より日本初の大乗戒壇設立を目指し、「国の宝」となる人材育成をうたった三首の上表(『山家学生式』と総称)を行い、これに反対する奈良の僧綱に対しては『顕戒論』『内証仏法相承血脈譜』等を著して反論。晩年はこれらの論争に傾注し、同一三年遷化。悲願の大乗戒壇設立は寂後七日目にして勅許が下った。著作は『伝教大師全集』所収に限っても一三四部を数える。最澄の天台教学は総合仏教的な性格を有していたため、法然をはじめ多くの宗派の祖師延暦寺に修学した。


【資料】一乗忠撰『叡山大師伝』


【参考】叡山学院編『伝教大師全集』全五巻(世界聖典刊行協会、一九七五)、塩入亮忠『伝教大師』(日本評論社、一九三七)、安藤俊雄・薗田香融校注『最澄』(『日本思想大系』四、岩波書店、一九七四)、伝教大師研究編集会編『伝教大師研究』(早稲田大学出版部、一九七三)、木内尭央『伝教大師の生涯と思想』(第三文明社、一九七六)、渡辺守順『伝教大師著作解説』(叡山学院、一九九二)


【参照項目】➡天台宗比叡山年分度者


【執筆者:霜村叡真】