「安養寺」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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2018年3月30日 (金) 06:18時点における版
あんにょうじ/安養寺
一
大津市南郷。立木山。滋賀教区№四〇三。厄除けの立木観音で知られる。弘仁六年(八一五)空海の創建と伝える。空海が諸国行脚の途中、瀬田川の対岸の立木山に光り輝く霊木を発見したが、急流のため近づけないでいると、白い鹿が現れ、空海を背中に乗せて急流を飛び渡り、霊木の前まで導き、観音に姿を変えた。空海はその時四二歳の厄年であったため、この奇瑞を観音の導きであるとし、衆生救済のため、霊木に等身大(五尺三寸)の観音を刻み、一寺を建立したのがはじまりという。年中行事は、初立木会(一月一五~一八日)、節分会(二月三日)、千日会(九月五日)等。新西国霊場二十番札所。
【参考】『新修大津市史』九(大津市役所、一九八六)
【執筆者:曽田俊弘】
二
京都府木津川市市坂久保川。州見山念仏院。京都教区№三九四。円光大師御遺跡四十八所の番外札所。西方四十八願所第三一番。法然が六字名号と大石とを量り校べて念仏の功徳を説いたと伝えられる遺跡。寺伝によると、天平八年(七三六)行基が一宇を建立して自作の阿弥陀如来像を安置したという。建久六年(一一九五)三月、東大寺大仏殿再建供養のとき、法然が念仏のみ称えたことに疑いをもった者が、国境の市坂の南の高座まで法然を追いかけて詰問すると、法然は念仏の功徳を示すために、六字名号を紙に書き、傍らの大石と掛け合い校べると、名号は重くして大石は軽々と上がった。そのとき法然は当寺において二夜三日の別時を修して人びとを教化し、校量の名号は当寺の宝物となった。永正五年(一五〇八)その大石は光明を放って現在の念仏石堂の地に飛びきたったという。正保四年(一六四七)安楽房学順が寺地を移し中興、知恩院三六世帝誉尊空から安養寺の寺号が下された。
【資料】『蓮門精舎旧詞』五(続浄一八)、『浄土宗寺院由緒書』下(『増上寺史料集』七)、名村愚仙『円光大師御遺跡四十八所口称一行巡拝記』、『都名所図会』五(『新修京都叢書』六、臨川書店、一九六七)、『弥陀霊像西方四十八願所縁起』三
【参考】浄宗会編『円光大師法然上人御霊跡巡拝の栞』(知恩院、一九九六)
【執筆者:山本博子】
三
福岡県久留米市御井町。厨山聖光院。厨寺ともいう。福岡教区№一八九。聖光の遺跡寺院。聖光を開山とする。高良玉垂命を祀る高良山の近くにあり、『翼賛』によると、地頭の厨氏が寺地堂舎を聖光に寄進したことにはじまる。この道場で、聖光が千日の如法念仏を修し、念仏者が集ったところ、八百日目に高良山の大衆が、高良山の麓での専修念仏に反対し、念仏衆を追い出そうと謀った。決行前の晩、高良山の大衆は皆同じ霊夢を見て改悔し、聖光に帰依したという。
【資料】『四十八巻伝』四六、『聖光上人伝』(浄全一七)、『翼賛』四六(浄全一六)、『蓮門精舎旧詞』三九(続浄一九)、『浄土宗大観』
【参照項目】➡高良山
【執筆者:竹内真道】
四
⇨安養寺(あんようじ)