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「大島徹水」の版間の差分

提供: 新纂浄土宗大辞典

 
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2018年3月30日 (金) 06:21時点における最新版

おおしまてっすい/大島徹水

明治四年(一八七一)三月一五日—昭和二〇年(一九四五)一月二四日。広蓮社清誉真阿あざなは三来。増上寺八一世。愛知県知多郡大府町横根村(現・大府市横根町)に父大島市郎兵衛、母ゑいの四男として誕生。幼名源次郎。九歳のとき、愛知県碧南郡中山村(現・碧海市霞浦町)の貞照院住職、戒幢を師として剃髪出家。明治一五年(一八八二)横根村の小学校、のち浄土宗学名古屋支校、浄土宗高等学院浄土宗専門学院の各校を卒業、同三七年浄土宗学第五教校の教授兼幹事に就任。同四四年荒廃はなはだしき京都の浄土律院成等庵の復興につとめる。また、同四五年、因幡薬師に開校(同三七年)した高等家政女学校(現・京都文教学園)の経済的破綻に際し、その経営を外護者の坂根弥兵衛に懇請され、女子教育を専心決意し、大正五年(一九一六)、校舎を四条寺町大雲院境内に移し再興を図った。その間、滋賀県金勝の阿弥陀寺、さらに安土の浄厳院住職を歴任する。昭和九年(一九三四)、教育的環境を整えるべく、家政高等女学校を現在地東山岡崎に移転し、鉄筋コンクリート四階建て校舎を新築落成した。これにあたり七五万円という当時として巨額の整備・建築費には、布施等自身の全財産を投じ復興の基礎を固めた。この年、一宗総選挙の結果、増上寺法主に当選、月半分は増上寺の寺務、残り半分は学校での校務という前提で承諾した。その後、同二〇年、「大家政学園構想」の一環として宿願であった併設校京都女子厚生専門学校を創設した。大雲院校以来学校では、四畳半を起臥の自室とし、生徒たちへは「陰徳を積め」を常の言葉とし、女子教育に徹した。増上寺では、大書院「聡和殿」を新築し、明治以降途絶えていた「大五重」を再開し、東京都の所有に編入されていた一八万余坪の境内地を増上寺に取り戻すなど、校長・法主として、二足の草鞍がけで陣頭指揮し、遷化まで教育と宗門との興隆に身を挺した。学問は大鹿愍成に師事し、葛城の慈雲尊者、布施行者颯田本真、特に知恩院門主山下現有を尊崇し(山下現有撰『攖寧邨舎詩えいねいそんしゃし 二巻』の出版)、渡辺海旭矢吹慶輝とは懇親の間柄であった。その性、豪放磊落らいらくにして慈悲心深く、しかも律院の伝統を守り、一汁一菜、絶対精進、質素倹約を旨としたためその逸話も多く、道友や信者として、政財界人、学者、芸術家、軍人等その徳を慕う人が多く集まった。その一部に、京都では、一灯園創始者西田天香、画家富岡鉄斎、学者では、内藤湖南、狩野直喜、羽田亨、小川琢治など、東京では、相馬愛蔵・黒光夫妻、藤山愛一郎、永井柳太郎、尾上菊五郎、尾上梅幸、高橋是清、渡辺錠太郎、徳富蘇峰、吉田絃二郎、ビハリ・ボースなど当時の錚々そうそうたる著名人である。昭和二〇年正月、家政学園高等女学校の方丈遷化。世寿七五歳。


【参考】石橋誡道『大島上人を仰ぐ』(家政学園、一九九四再刊)、相馬黒光『滴水録』(相馬安雄、一九五六)、矢吹輝夫『大島徹水先生の思い出』(京都文教中学高等学校、二〇〇三)、澤田謙照「無学の真人 大島徹水先生—その学問の姿勢について—」(『家政学園研究紀要』二、家政学園中・高等学校、一九九四)、大河内良孝「大島徹水先生との出会い」(『学園と共に五十年』京都文教学園、二〇〇三)


【参照項目】➡京都文教学園


【執筆者:澤田謙照】