「無漏浄土」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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【執筆者:齋藤蒙光】 | 【執筆者:齋藤蒙光】 |
2018年9月17日 (月) 10:09時点における版
むろじょうど/無漏浄土
極楽浄土が煩悩に汚されていないことを表す言葉。道綽は、この穢土においては相に囚われて貪り求めたり、憂い怖れたりと煩わされるが、極楽においては「相を取るといえども、当に執縛とすべきにあらざるなり。また彼の浄土に言う所の相とは、即ちこれ無漏の相、実相の相なり」(『安楽集』浄全一・七〇三下/正蔵四七・一八下)と、その相は無漏なので執着することはなく、むしろ解脱を得て智慧の眼が開き、朗らかになると説明する。また善導も依報荘厳は「皆これ弥陀浄国の、無漏真実の勝相なり」(『観経疏』聖典二・一六四/浄全二・二下)と説き、さらに「諸の宝林樹、皆弥陀無漏心の中より流出す。仏心これ無漏なるに由るが故に、その樹もまた、これ無漏なる」(同・二五四/同・四一上)と、阿弥陀仏の無漏の心から生じているから無漏なのだと説明する。ただし懐感は、無漏心を有する阿弥陀仏においては無漏土だが、いまだ煩悩を有する凡夫が往生する場合は、自身の心から変現した有漏土となるという(『群疑論』浄全六・八下)。
【執筆者:齋藤蒙光】