「信寂房」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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しんじゃくぼう/信寂房
—寛元二年(一二四四)三月三日。朝日山の信寂房、播磨の信寂房と呼ばれる。播磨義と呼ばれる一派のきっかけとなった僧。洛東鳥部野の草庵に住していた。ある時期には、播磨国室の泊の長者の家で、身の上を隠し、召し使われることもあった。その長者の家へ泊まることになった吉川氏は、既知であった信寂房を発見し、朝日山に堂を建て住まわせたという。また、明恵が『摧邪輪』を著して『選択集』の批判をした際、信寂房は破文を著して対抗した。その書が『慧命義』一巻であるとされる。寛元元年(一二四三)、遠江国横路の西蓮という僧から、当時京都にいた信寂房に、遠江での布教の要請があり、かの地へ下向。翌年に癰瘡をおこし、念仏のうちに亡くなった。著書に『選択要文』三巻、『光顕鈔』二巻があり、一説によると『選択要決』も彼のものとされる。弟子に顕実らがいる。
【資料】『四十八巻伝』四三(聖典六)、『鎮流祖伝』(浄全一七)、『峰相記』(仏全二八)、『扶選択正輪通義』(浄全八)、京都了蓮寺蔵『選択講苑』
【参考】嵐瑞澂「専修念仏の地方社会への浸透—朝日山信寂の播磨義を中心として—」(『仏教論叢』一八、一九七四)
【参照項目】➡播磨義
【執筆者:角野玄樹】