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「自性清浄心」の版間の差分

提供: 新纂浄土宗大辞典

 
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2018年3月30日 (金) 06:26時点における最新版

じしょうしょうじょうしん/自性清浄心

心が本性的に清浄である、仏の智慧のように輝いているとの意味。心が本来的に仏のように清浄であるか、汚染わぜんしているかは議論が分かれる。四諦の第二の集諦じったい無明貪欲であり、その結果第一の四苦八苦苦諦があるように、釈尊の教えの原点からすれば本より心が自性清浄であるとは言えない。部派仏教の中でも上座部と対峙した大衆部の中に「心は本性としては清浄であるが、生活の中でさまざまな欲望により汚されている」という心性本浄説も出たが、それでも欲望の克服に重点があることは明らかである。大乗は一切皆空を説く『般若経』を基礎とし、教え(法)ですら空(法空)であると主張した。龍樹の『中論』のように如来世間涅槃生死の区別も空無自性の下で一切平等であるとされ、その上で両者の相即が説かれる。大乗の流れの中でも唯識説は『解深密経げじんみっきょう』のように『般若経』の空を未了義として批判し、心識の煩悩性を阿頼耶識あらやしきの主張の中で深く掘り下げ、簡単には心の清浄性は実現できないとした。一方では如来蔵仏教仏性の大乗の流れが法身仏性の自性清浄性を強調した。如来蔵経典として代表的な『勝鬘経』には、「然るに煩悩有り、煩悩の心を染する有り。自性清浄心にして染あるは了知し難し」(正蔵一二・二二二中)とあり、これを受けて『宝性論』では凡夫聖人・諸仏如来ですら平等の本来性であると強調する。『起信論』でも衆生心に備わる法身如来蔵の徳性として「真如の自体相とは、一切の凡夫声聞縁覚菩薩と諸仏とに増減あること無く、前際にも生ずるにも非ず、後際にも滅するにも非ず、畢竟ひっきょうして常に常恒なり。本より已来このかた、自性に一切の功徳を満足す。所謂、自体に大智慧光明の義あるが故に、遍照法界の義の故に、真実識知の義の故に、自性清浄心の義の故に、清涼不変自在の義の故に…」(正蔵三二・五七九上)とある。東アジアの仏教では仏性の重要性と結びつき、その際にこの一句が多く依用される。


【参照項目】➡如来蔵本覚・始覚大乗起信論


【執筆者:吉津宜英】