「璽書」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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じしょ/璽書
教えの真髄を、信頼する門人に伝えて教えの広布を願うこと。付法、付属ともいう。その教えが崇高にして最勝のものであることを示すため、中国において皇帝の言葉を表すのに「璽」の文字を用いる例にならい璽書という。『観経』において釈尊はひろく定散二善の往生行を説いたが、末尾に至って「汝好くこの語を持せよ、この語を持せよとは、すなわちこれ無量寿仏の名を持せよとなり」(聖典一・三一四/浄全一・五一)とあって、釈尊が阿難に称名念仏の一法を付属したことをもって璽書の初めとすべきであろう。法然が学行ともにすぐれた門人に自著の『選択集』の冠頭にある「往生之業念仏為先」(聖典三・九七/昭法全三一〇)等の二一文字を自書して筆字を許したのも付法の一例である。法然より『選択集』の相伝を受けた二祖聖光は『徹選択集』を著して選択本願の念仏の真意の開顕につとめると共に、法然門下に異義異説をとなえるものが多々あることを憂い、『授手印』一巻を著して正義の伝承につとめた。その末尾に「念仏往生浄土宗血脈相伝手次の事」(聖典五・二四一/浄全一〇・九上)と記して相伝の要旨を三祖良忠に伝えた。良忠以降、寂慧・蓮勝・了実と次第相承され、七祖聖冏の時代となって浄土宗僧侶を希望するものが次第に増加したために新しく伝宗伝戒の制度が定められた。
聖冏はその中で特に学行にすぐれたものには自著『教相十八通』等を与えて付法の人としたようである。その後、時代社会の変遷とともに伝法制度も改変され、増上寺九世貞把、同一〇世存貞の時代となって簡易な箇条伝法の制度が創設されるに及んで璽書三箇条なる新しい付法制度ができ、宗侶の中より指導的立場にある人に伝える伝法となった。近世になって浄土宗の教団体制が整備されるに及んで伝法と璽書はともに制度化され、『浄土宗法度』第五条に「浄土修学十五年に至らざる者には両脈伝授あるべからず。璽書の許可においては器量の仁たりと雖も二十年に満ぜざるものに堅く相伝せしむべからざる事」(浄全二〇・五七七上)とあって、檀林修学二〇年を満たし宗戒両脈の相伝を受けたものでなければ璽書の伝受は許されなかった。しかし宗戒両脈を受けて浄土宗寺院住職となったものが再び檀林に五年間在席して璽書を受けるのは、殊に遠隔の寺院では容易なことではない。したがって璽書を伝受しないものが在家の人に対して化他五重や布薩戒脈相承を行った例のあることが享保一八年(一七三三)一〇月の総録所発布の覚書に見られる。布薩戒とは念戒一致を説くものであるが、いつ頃から璽書相承に付随して相伝されたか明らかでない。ただ、増上寺四五世大玄が布薩戒妄伝を主張しているところより考えるに、徳川時代中期には璽書と並んで重要な最奥の伝法とされていたようである。これは明治時代になって廃止された。現今では僧階叙任後五年以上を経て教化活動に従事したもので、宗務総長の許可を受けたものが璽書相承を受けることができる(ただし住職の資格を有する者は年限の規定は除かれる)。璽書を授ける璽書伝授道場は総本山知恩院、大本山増上寺において開かれている。
なお昭和一三年(一九三八)璽書なる名称が不穏当であるとして付法と改称され、付法伝授、付法道場などと呼ばれたが、戦後は元の名称に復した。この璽書相承を受けたものは阿号の呼称が許され、伝灯師・伝戒師の資格を有するものとされている。
【執筆者:坪井俊映】