「学信」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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2018年3月30日 (金) 06:21時点における最新版
がくしん/学信
享保七年(一七二二)—寛政元年(一七八九)六月七日。字は敬阿、正蓮社行誉。増上寺四九世霊応より華王道人の印証を賜った。晩年は自ら無為と称した。伊予国今治の人。捨世派の念仏聖。幼くして当地の寺町円浄寺真誉の下で得度し、内外の典籍を学ぶ。一五、六歳のとき道心堅固を示すため断食礼誦・指灯供養をする。二〇歳のとき増上寺に入り宗戒両脈を受けるも、名利栄達を厭い、上京して浄土律の長時院湛慧信培から戒律を学び、生涯不脱法衣を貫く。のち京都のほか、筑紫・日向・長門・安芸・備後・周防・伊予など西日本各地を巡錫教化した。この間、伊予国岩城島浄光寺、明和五年(一七六八)京都獅子谷法然院、次いで安芸国宮島光明院、松山長建寺、大林寺と請われるままに住職をしているが、檀務は断り浄業を修し、厳格な僧侶教育に徹した。扶宗護法の念篤く、その著『蓮門興学篇』において、教団の衰退、僧風頽廃の原因を檀林教育の形骸化と法主の教化姿勢に求めている。また天明三、四年(一七八三—一七八四)の飢饉時には、宮島にあって飢民救済に尽くした。著書は前記のほかに、『一枚起請文符合決』『一念邪正決』『幻雲稿』などがある。
【資料】『学信和尚行状記』(浄全一八)
【参照項目】➡学信和尚行状記
【執筆者:長谷川匡俊】