「秋浦定玄」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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【参考】『黒谷誌要』(浄全二〇)、『浄土教報』一五四、三六六、三六九、一二三一 | 【参考】『黒谷誌要』(浄全二〇)、『浄土教報』一五四、三六六、三六九、一二三一 | ||
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【執筆者:井野周隆】 | 【執筆者:井野周隆】 |
2022年12月9日 (金) 08:45時点における最新版
あきうらじょうげん/秋浦定玄
弘化元年(一八四四)九月一一日—大正五年(一九一六)八月二三日。寂蓮社静誉雷阿。字は拙黙、あるいは楓水。金戒光明寺六〇世。現在の茨城県稲敷市に生まれる。俗姓は仁井田氏。嘉永五年(一八五二)、幼くして江戸崎大念寺、寥誉定円を師として得度する。安政五年(一八五八)には、増上寺に掛錫し梁誉観定について十余年の間、宗学を修め、明治六年(一八七三)一月二七日より西福寺(福井県敦賀市)の住職を二七年間務める。その間、教部省より少教正に補せられ、一宗顧問、布教会副会長、浄土宗学本校校長等の要職を歴任。同三二年九月一三日に一宗公選によって、金戒光明寺法主に選出されるも、その任に堪えざる身を理由に再三にわたり固辞したが、ついには一宗より勧告をうけて六〇世の法灯を受け継ぎ、ならびに正僧正に叙せられた。同三六年三月、浄土宗専門学院校長に就任。金戒光明寺在山一七年間、ほぼ毎年、全国各地を巡回し檀信徒教化に努め、同四四年二月一五日には大僧正に叙せられ、四月に法然の七〇〇年遠忌を厳修し、山門をはじめ諸堂の大修繕を行った。世寿七三歳で示寂するまで、教学の興隆や子弟を養成するなど、宗門の発展に多大なる功績を残した。
【参考】『黒谷誌要』(浄全二〇)、『浄土教報』一五四、三六六、三六九、一二三一
【執筆者:井野周隆】