「源智上人造立阿弥陀如来立像像内納入品」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
Seishimaru (トーク | 投稿記録) 細 (1版 をインポートしました) |
Seishimaru (トーク | 投稿記録) 細 (1版 をインポートしました: 20180917 リンクと画像表示修正) |
||
18行目: | 18行目: | ||
− | [[File:げんちしょうにん_のうにゅうひん_1.jpg| | + | [[File:げんちしょうにん_のうにゅうひん_1.jpg|thumb|left|upright=2.5|[[源智上人造立阿弥陀如来立像像内納入品]]①]] |
− | [[File:げんちしょうにん_のうにゅうひん_2.jpg| | + | [[File:げんちしょうにん_のうにゅうひん_2.jpg|thumb|left|upright=2.5|[[源智上人造立阿弥陀如来立像像内納入品]]⑧]] |
2018年9月17日 (月) 01:17時点における最新版
げんちしょうにんぞうりゅうあみだにょらいりゅうぞうぞうないのうにゅうひん/源智上人造立阿弥陀如来立像像内納入品
もと滋賀県甲賀市信楽町勅旨の高野山真言宗寺院玉桂寺の木造阿弥陀如来立像一体に納入された胎内文書をいう。源智自筆の造立願文と数万人姓名の結縁交名、念仏数取状その他が含まれる。平成二二年(二〇一〇)二月、浄土宗の所有となる。
昭和四九年(一九七四)五月、文化庁と滋賀県教育委員会による特別総合調査において、玉桂寺から鎌倉時代初期の安阿弥様の三尺弥陀像一体が発見され、同五三年三月、同像が同県有形文化財に指定された。同五四年八月、保存修理中、像内から前記多数の文書が発見され、直ちに佛教大学史学科スタッフからなる文書調査団(代表・柴田実)が結成され、同五六年三月『玉桂寺阿弥陀如来立像胎内文書調査報告書』が刊行(発行所玉桂寺)され同像は同五六年六月、国重要文化財に指定された。この像は、前記高野山真言宗の玉桂寺に所蔵されていたが、平成二三年に迎える法然上人八〇〇年大遠忌を機に、同像および像内文書を浄土宗に請来する事業が企画され、玉桂寺と諸関係機関と交渉、平成二二年一月に浄土宗に迎えられた。その後、文書類は京都国立博物館で修復作業が行われ、現在は像とともに同博物館に寄託されている。 ①源智造立願文一通。写経料紙一紙。漢文体全五〇四字からなる。
また仏像の胎内には、道俗男女の結縁者の交名が表裏両面に細字で書き込まれた写経料紙、その他の紙を継いだもの、同じく道俗男女の交名が書かれた袋綴の冊子二冊、同じく一紙ものの交名三紙、別に名号紙札、結縁供養紙札、百万遍念仏の数取状などが納入されている。
種々の結縁者注文を分類して示す。②「百万遍人衆」一通。一紙(建暦二年十二月廿一日)。③四十八人念仏衆交名一通。一紙。④念仏結縁交名一通。一紙(奉加銭記入)。⑤「一万遍の念仏人士」一通。一紙。⑥「越中国百万遍勤修人名」一巻。三紙。写経料紙。⑦「注進 百万人々数之事」一冊。二一丁。⑧をみのさたつね等交名帳一冊。一九丁。⑨順阿弥陀仏等交名一巻。三紙。写経料紙。⑩蓮仁等交名一巻。三紙。写経料紙(第一紙端裏書「導西書写分」)。⑪平学等交名一巻。四紙。写経料紙。⑫源頼朝等交名一巻。二紙。写経料紙。⑬大納言等交名一巻。二紙。写経料紙。⑭成阿弥陀仏等交名一巻。三紙。写経料紙。⑮橘寺利等交名一巻。一一紙。⑯「念仏勧進」一巻。七紙。⑰源氏等交名一巻。一二紙。⑱一万遍念仏者交名一通。一紙。⑲念仏者交名一通。一紙。⑳念仏者交名一通。一紙。㉑念仏者一通。一紙。㉒入道入蓮等交名一通。一紙。㉓念仏者交名三片。三紙。㉔消息一通。㉕念仏供養札等一括。四八片。四八紙。㉖名号紙片一片。一紙。㉗名号紙片九片。九紙。㉘念仏数取状一通。一紙(備考、行間に「百万遍念仏」とあり)。㉙念仏数取紙片一片。一紙。㉚念仏数取紙一片。一紙。㉛清原重遠等交名一片。一紙。
源智自筆の造立願文によれば、源智は師恩に報じるため、各地で念仏を勧め、結縁した「数万人姓名」を「三尺弥陀像」に納入し、この「凡聖一位」「迷悟一如」の意義を有する阿弥陀仏像の造立を果たすことで、「化物」を心とし「利生」を先とされていた「先師」法然の志を継ぐことこそ「真報謝」だと考えた。また願文には源智の俗縁者の名があり、右記の交名⑫でも見出される。また願文で源智は、像中奉納の「道俗貴賤・有縁無縁之類」は「愚侶(源智)」の「方便力」で「我師之引接」を蒙り往生できるとのべ、結縁者中誰か一人でも先に往生すれば「忽ち還り来て残衆を引入」れ、また自分が先に往生したら「速やかに生死の家に入って残生を導化」しようと欲し、わが願をもって衆生の苦しみを導き、衆生の力をもってわが苦しみを抜き、自他ともに九品の蓮台上に化生せんことを願っている。
また、胎内文書の交名の数は「願文」によれば「数万人」とあるが実数では四万六千人余に及んでいる。質量ともに抜群の鎌倉初期勧進史料である。この胎内文書の分析によって、念仏普及の状況、勧進の方法とその実態などが解明できる。法然示寂前後の法然教団史料としてまことに貴重である。
【参考】佛教大学玉桂寺阿弥陀如来立像胎内文書調査団(代表柴田実)編『玉桂寺阿弥陀如来立像胎内文書調査報告書』(玉桂寺、一九八一年三月)、伊藤唯眞「勢観房源智の勧進と念仏衆」(『浄土宗の成立と展開』吉川弘文館、一九八一)、野村恒道「勢観房源智の親類紀氏について」(『三康文化研究所年報』一六・一七合、一九八五)、伊藤唯眞「玉桂寺阿弥陀仏像造像結縁交名にみる法然教団」(『源智・弁長・良忠三上人研究』三上人御遠忌記念出版会、一九八七)
【執筆者:伊藤唯眞】