「依報・正報」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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2018年9月17日 (月) 00:25時点における最新版
えほう・しょうぼう/依報・正報
自分自身の過去の業の報いとしてまさしく得られた有情の身心を正報といい、有情の生存のよりどころとなる山川草木などの外的な環境を依報という。依報は多数の有情が共同で造る業(共業)の結果である。たとえば、『唯識二十論』において餓鬼たちが等しく水を膿と見る(正蔵三一・七四下)のはこの共業によるとされる。正報は有情世間にあたり、依報は器世間にあたる。両者合わせて依正二報とも、依正ともいう。極楽浄土の正報は、阿弥陀仏や観音、勢至などの菩薩たち、無数の弟子(声聞)および神々(天)である。ただし『無量寿経』上に「その諸もろの声聞・菩薩・天・人、智慧高明に神通洞達し、咸同じく一類にして、形異状なし。ただ余方に因順するが故に、天・人の名あり。…容色微妙にして、天にあらず人にあらず」(聖典一・二四四/浄全一・一七)といい、善導『往生礼讃』に「天類豈に真天ならんや」(浄全四・三七〇上/正蔵四八・四四五中)とあるように、天も人も他の世界にならって仮にその名があるだけである。すべて肌は金色で三十二相を具え、遠い前世を想起し、遠くのものを見聞きし、他人の心理を読み、遠くへ飛行して化身を造るなどの超能力(神通力)や、無量の光明、無量の寿命、極まりのない安楽、すぐれた智慧をそなえ、必ず仏になることが約束された不退転の境地にある。また地獄・餓鬼・畜生(動物)もなく、女性も身体部位や感覚器官を欠いた者もいない。
極楽の依報は、宝地・宝池・宝樹・宝楼閣・蓮華など国土にあるすべての構造物や環境である。美しく配置され、国土を飾るものであるから「荘厳」とも言われる。大地は平らで山や谷がなく、七宝、瑠璃あるいは黄金からなり、人々が足を降ろすと四寸沈んでは元に戻る。八功徳水をたたえた七宝の池には車輪ほどの大きさの青・黄・白・赤の蓮が咲き、同じ色の光を放つ。往生人が生まれるのはこの池の蓮の台である。池で沐浴する人は、水の深さを思い通りに変えることができる。食物、衣が自在に得られ、裁縫・洗濯の必要がない。一日に六度、天から美しい華が降り、大地に吸収される。宝樹に微風が当たると宝が互いに触れ合って天上の音楽を奏で、芳香を放ち、仏の教えを説く。仏の教えは池の水、宝楼閣内の楽器、幻の鳥たちによっても述べられる。このように依報はすべて快適なものであるが、煩悩を誘発するもの(有漏)でなく、それを断つためにはたらく(無漏)。また、極楽世界は楽園ではなく、あくまで修行の場である。善導は『観経疏』玄義分で極楽浄土の依報を三つに大別し、「地下の荘厳」を「一切の宝幢光明の、互いに相い映発する等」(聖典二・一六四/浄全二・二下)とし、「地上の荘厳」を「一切の宝地、池林・宝楼、宮閣等」(同)とし、「虚空の荘厳」を「一切の変化の宝宮、華網、宝雲、化鳥、風光の動発せる声楽等」(同)としている。さらに『観経』に説かれる一三の観想の対象を真仮・通別に分類する。法然は『逆修説法』五七日冒頭から、極楽の依正のすべてが阿弥陀仏の四十八願の力によることを「すべて彼の国の人天は目も鼻も我が物にあらず。皆、仏の願力所成の功徳なり。頭目、髄脳、五体身分、一つとして阿弥陀仏の願力にあらずということなし」(昭法全二六三)などと具体的に述べ、「惣じて此の国の中のあらゆる依正二報は、併しながら法蔵菩薩の願力にこたえて成就したまえるなり。此は是れ、阿弥陀仏の功徳とほぼ意うべきをや」(同上)とまとめている。
【参考】藤田宏達『善導』(『人類の知的遺産』一八、講談社、一九八五)、眞柄和人訳註『傍訳逆修説法』上・下(四季社、二〇〇六・二〇〇七)
【参照項目】➡極楽
【執筆者:本庄良文】