梶井門跡
提供: 新纂浄土宗大辞典
かじいもんぜき/梶井門跡
京都大原三千院の近代以前の名称。天台三門跡の一つで梨本門跡ともいわれる。最澄が比叡山東塔南谷に建てた円融坊にはじまるとされ、これを山上本坊とする。坊舎のそばに梨の大木があり梨本といわれた。山麓の本坊は坂本梶井の円徳院である。元永元年(一一一八)堀河天皇の皇子最雲法親王が入寺し、それ以後歴代門主の多くを天皇家が占め門跡寺院の地位を確立した。門主は台密法曼流を相承して台密修法を習得し、天台座主や護持僧に任じられ朝廷の祈禱に手腕を振るった。また梶井門主とその一門の声明家による宮中御懺法講は江戸時代末まで続いた。中世の有力院家には毘沙門堂と檀那院があり、管領寺院には東塔の文殊楼・四王院・延命院、横川の恵心院、坂本の西南院、大原の勝林院・龍禅院などがあった。本坊は岡崎大塔宮敷地・船岡山などをへて、元禄年間(一六八八—一七〇四)に現在の上京区梶井町に移り明治維新まで続いた。明治四年(一八七一)大原政所を本拠とし三千院と称した。境内の往生極楽院は明治時代に三千院に編入されたもので、院政期に真如房尼により建立された阿弥陀堂で本尊は阿弥陀三尊坐像(国宝)。円融蔵には台密や天台声明に関わる貴重な聖教を収蔵する。『四十八巻伝』四一に、鎌倉初期の梶井門主承円が承久の乱前に天台座主を辞し大原西林院に籠居したときの話を載せる。それによると、隠岐へ流された後鳥羽院から承円に念仏信仰について質問があり、承円はそのことにつき明禅に問い合わせたという。
【資料】『天台正嫡梶井門跡略系譜』
【参考】『三千院円融蔵文書目録』(三千院門跡円融房出版部、一九八四)
【参照項目】➡三千院
【執筆者:善裕昭】