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養鸕徹定

提供: 新纂浄土宗大辞典

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うがいてつじょう/養鸕徹定

文化一一年(一八一四)三月一五日—明治二四年(一八九一)三月一五日。瑞蓮社順誉金剛宝阿。号は古経堂。浄土宗初代管長知恩院七五世。筑後国久留米藩士鵜飼万五郎政善の二男。鵜飼家は代々浄土宗宗安寺檀家であった。徹定は六歳のとき浄土宗西岸寺光誉禅竜のもとで出家し、文政一〇年(一八二七)仏教儒教を修めるために京都へ。徹定の京都修学は、文政一〇年から天保三年(一八三二)と、江戸増上寺宗学を修め五重相伝(浅学相承)を承け宗戒両脈を伝授され、再び京都に上った天保八年から同一三年までの合わせて一〇年間である。徹定の生涯にわたる業績を三点で示す。第一は、古経蒐集しゅうしゅうを中心とする考証学的研究とその活動があげられる。徹定の『古経捜索録』の序に、嘉永五年(一八五二)の秋、西遊して諸刹の古経を捜索し、袋中が蒐集し散逸した古経類を奈良念仏寺で購入したり、機をみて隋・唐以前に溯って古写経を得たいので、「古を探っては今を知る、前知窮りなし」の言葉を自分の志とした旨が述べられ、古経捜索の旅が始まったという。今日知恩院に蔵されている数百巻の古写経は、徹定が独自の鑑識眼と学殖をもって購入したものである。第二に、排耶論はいやろんにもとづく破邪顕正運動を行ったことである。万延元年(一八六〇)に『続興学篇』を著して以来、明治五年(一八七二)までがこの時期にあたる。この時期に徹定の愛古の事業である古写経蒐集の大事業も一つの決着をみるが、排耶書も『釈教正謬初破』、同『再破』をはじめ一一冊を数え、排耶書の編纂と覆刻に力を注いだ。安政五年(一八五八)の各国との修好通商条約の締結による開国と、キリスト教(とくにプロテスタント)の流入という難題に直面した徹定が排耶書を著すときには杞憂道人きゆうどうじんを名乗る。第三は、浄土宗管長知恩院住職就任後の宗政活動である。明治五年に徹定は「養鸕」の古姓に復した。同年、一一年間所在した岩槻浄国寺より小石川伝通院住職となり、この年に浄土宗初代管長となる。同七年四月知恩院住職になった。そこで従来より増上寺で行われてきた伝宗伝戒を、徹定は知恩院など京都四箇本山もなしうるようにした。この頃より浄土宗東西の抗争が伝法問題をきっかけに激しくなった。徹定は同一〇年『吉水正統系譜略阿号考』で、関東関西の本山がみな正統であり伝法権は関東のみに限るべきでないことを明した。これに対し同一八年東京霊巌寺神谷大周は徹定を批判し、同年東部管長増上寺福田行誡は『譜脈私案』を著して徹定説を破した。徹定は同年『答弁譜脈私案』で反論した。


【参考】牧田諦亮編「徹定上人年譜」(『古経堂捜索録(別冊)』東山学園、一九七三)、芹川博通『異文化の摩擦と理解』(北樹出版、一九九四)、同『仏教とキリスト教Ⅰ・Ⅱ』(『芹川博通著作集』三・四、北樹出版、二〇〇七)


【執筆者:芹川博通】