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諸行本願義

提供: 新纂浄土宗大辞典

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しょぎょうほんがんぎ/諸行本願義

法然門下の長西が主張した、念仏以外の諸行本願として位置づけ極楽往生を期する教え。法然が『選択集』三で、称名念仏のみを極楽往生のための本願行とし、それ以外の諸行を非本願の行と位置づけたが、長西はそれを、『無量寿経』に説かれる阿弥陀仏の第十八願を根拠に述べているところであって、第十九願・第二十願には及ばないとし、特に第二十願「もし我仏を得たらんに、十方衆生、我が名号を聞きて、念を我が国に係けて、諸もろの徳本を植え、至心回向して、我が国に生ぜんと欲せんに、果遂せずんば、正覚を取らじ」(聖典一・二二七/浄全一・八)を基に、称名念仏以外の諸行阿弥陀仏本願行であるとした。本義は当時より師説から乖離しているとの批判を受けたが、長西念仏諸行を総別勝劣に分けて、師説との接合を図ろうとしている。この諸行本願義は、諸行を非本願とした法然の説を理由として弾圧が横行する中、諸行の価値を位置づけることによって、他の教義との融和を図っていこうとする意図を有している。この説を受けた長西の門流には、華厳・真言・禅・律との親和が生まれ、特に鎌倉や京都で真言律宗と結び、広く支持を受け、影響力を保持した。


【参考】石橋誡道『九品寺流長西教義の研究』(佛教専門学校出版部、一九三七)


【参照項目】➡九品寺流長西


【執筆者:東海林良昌】


一巻。道教撰。金沢文庫保管。阿弥陀仏本願には念仏以外の諸行による往生も誓われていること、それを示しているのが第二十願に他ならないことを主張したもの。すなわち、念仏一行のみが本願行であったならば、様々な機根の者を漏れなく往生させるという仏の慈悲は非常に狭少なものとなってしまうので、諸行非本願の言は第十八願に限ってのことであるとし、こうした諸行本願の義は善導の釈義に反するものでなく、法然もまた認容しているとする。本書においては、第二十願を三生果遂または繫念定生の願とみる鎮西流、とりわけ良忠の説が強く意識されている。


【所収】石橋誡道『九品寺流長西教義の研究』(国書刊行会、一九八四)


【参考】石橋誡道『九品寺流長西教義の研究』(国書刊行会、一九八四)、吉田淳雄「『念仏本願義』について」(『佛教大学総合研究所紀要別冊・浄土教典籍の研究』、二〇〇六)


【参照項目】➡道教


【執筆者:吉田淳雄】