操作

道教

提供: 新纂浄土宗大辞典

どうきょう/道教

中国漢民族の伝統宗教道教という語は、戦国時代の『墨子ぼくし』では儒教を、三国魏の時代に漢訳された『無量寿経』の中では仏教を指す普通名詞であった。その後、儒仏道三教の一つとして、固有名詞化されるのは、諸説あるが北魏の寇謙之(三六五?—四四八)前後の頃とされる。中国人は道教を中国で生まれ育った中国人の宗教といい、魯迅も中国文化の根底には道教がある、と説く。道教が一大宗教に育った背景には、古来の鬼神信仰や陰陽思想などに加えて、外来の仏教の影響もある。戦国時代の『荘子』には、藐姑射はこやの山に処女のように若々しい神人がいて、五穀を食わず風を吸い露を飲み空を飛ぶ、とある。秦の始皇帝は、東方の海上の蓬萊ほうらい方丈瀛洲えいしゅうの三神山の不死の薬とそれを服す仙人の存在を信じて、徐福にそれを求めさせた。神人仙人の存在を説く神仙思想は、道教に入って、山岳修行辟穀へきこく・丹田呼吸・服薬・内観・房中・飛昇の諸術に発展する。仏教からは戒律儀礼、経典の作成や読誦などを、儒教からは仁義孝悌などの善行の徳目などを受け入れた。漢末には、張陵(—一七九)の五斗米道や張角(—一八四)の太平道が初期の教団として出現した。そこでは病苦を除くために罪を懺悔し、符を入れた水を飲み、『老子道徳経』を読誦し、積善除邪の道誡を守ることが説かれた。教団では、信者を鬼卒や鬼吏と称したので、鬼道を民に教えた、といわれた。わが国の卑弥呼ひみこも鬼道につかえたと中国の史書は記す。初期の道教教団は名称を天師道といい、暫時淫祀邪教面を整斉していった。やがて知識人や皇帝の信仰を得て発展し、上清派・霊宝派・全真教・正一教などと変遷して今日に至る。道教の最高神は元始天尊や老子を神格化した太上老君である。また荘子は南華真人で、三国時代の有名な人物の関羽は、関帝(財神)などとなる。尊や真人の語は、日本の古代の人の名前に利用されている。道教はわが国に総合的・体系的には伝えられなかったので教団も道観(道教修行のための専門施設)もないが、謡曲の東方朔・西王母ほか久米仙人・浦島子・かぐや姫や星辰信仰庚申信仰九字呪文修験道などにその思想の一端を見ることができる。


【参考】金正耀著/宮澤正順監訳『中国の道教』(平河出版社、一九九五)、野口鉄郎『道教事典』(同、一九九四)、同編『講座道教』一~三(雄山閣出版、一九九九~二〇〇〇)、木村英一他監修『道教』一~三(平河出版社、一九八三)、『シリーズ道教の世界』一~五(春秋社、二〇〇二~二〇〇三)


【執筆者:宮澤正順】


三世紀頃、生没年不明。道教房、念空、道阿弥陀仏とも称す。京都九品寺長西に師事して、諸行本願義を学ぶ。また天台教義も修め、思円より具足戒を受けた。『関東往還記』の弘長二年(一二六二)七月一九日の条に、鎌倉の新善光寺別当で念仏者の主領とあり、また日蓮の『一代五時図』に「今の道阿弥」、『行敏訴状御会通』に「道阿弥陀仏」と名前がみえることからも、影響力の大きさが知られる。著書に『諸行本願義』『観経定善見聞集』などがある。『法水分流記』や『浄土惣系図』(西谷本)によれば、弘安年間(一二七八—一二八八)に没した。


【資料】細川涼一訳注『関東往還記』(平凡社、二〇一一)、『一代五時図』(『日蓮大聖人御書講義』一二上、聖教新聞社、二〇〇一)、『行敏訴状御会通』(『同』四下、一九九三)、野村恒道・福田行慈編『法然教団系譜選』(青史出版、二〇〇四)


【参考】日置孝彦「称名寺と宋代浄土教—性仙の『観経疏管見鈔』を中心として—」(『金沢文庫研究』二四九、一九七八)


【参照項目】➡諸行本願義


【執筆者:平間理俊】