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六斎念仏

提供: 新纂浄土宗大辞典

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ろくさいねんぶつ/六斎念仏

六斎日に行われる念仏踊りの一種。六斎日とは上半月の八日・一四日・一五日と下半月の二三日・二九日・三〇日の六日に八斎戒を受持し善事を行う精進日であるが、この日に鉦や太鼓を打って念仏することをいう。長禄四年(一四六〇)の宝篋印塔残欠(奈良県五條市大津町平田寺跡)に六斎念仏とあるのが初見。しかし一般に六斎念仏を始めたのは空也とされている。『空也上人絵詞伝』に「上人松尾へ参社有、念仏を唱え給えば明神出現して御対面あり、師弟の契約をなし御衣を内陣に納め俱に合掌して手をたびたびとり、又念仏を申給う事しばしば也、誠にかんたん肝にめいずるばかりなり。神これをよろこび、御前の鰐口太鼓布施上人にあたえ、末世衆生利益の為に、この太鼓をたたき念仏をすすめ給うべし…これより国々在々所々に入て、毎日斎日ごとに太鼓・鐘をたたき、念仏唱え衆生を勧め給いて、往生する人のあるは、太鼓鐘をたたきて念仏を申、有縁無縁の弔をなしたまうなり、是に依て俗呼て六斎念仏といい伝えたり」と、空也と松尾社との関係、六斎念仏の起源をのべている。このような、空也に仮託された伝承の背景を無視することはできないのであって、空也の末流と称する念仏遊行聖たちによって六斎念仏が始められ流布したと考えられる。そして空也所造の和讃良忍融通念仏和讃を加えて念仏したという。六斎念仏には京都光福寺(干菜寺)系、京都空也堂系、高野山系の三つの系統がある。 ①光福寺系。光福寺浄土宗・京都市左京区田中上柳町)に伝承している六斎念仏は、寺伝によれば一三世紀の中頃、光福寺中興開山心阿道空が行ったのが初めといわれ、その後、同寺を六斎念仏道場とした。永正一六年(一五一九)六斎念仏本寺綸旨をうけ、また文禄二年(一五九三)豊臣秀吉の保護をうけ山号を干菜山と賜り、金銀太鼓と六斎支配の許状が与えられた。以後、光福寺六斎念仏の総本寺として栄え、全国六斎講中を支配した。そして芸能的色彩をもつ空也堂系とは一線を画し、講中には信仰的節度を守ることを求めた。宝暦五年(一七五五)の『六斎支配村方控牒』によれば、山城をはじめ、遠く甲斐・越前・若狭・和泉・筑前・肥後に及び、約一三〇ほどの六斎念仏講中を支配していたことが知られる。光福寺では毎年六月二五日(開山忌)に支配下の講中が六斎念仏を修し、また知恩院御忌に多くの講中が集まり、御影堂前で六斎念仏を奉納している。宝永八年(一七一一)の五〇〇回忌遠忌には、其の徒三百余人が修したという(『華頂誌要』)。以後、七〇〇回遠忌まで続いた。

空也堂系。空也堂(京都市中京区蛸薬師通油小路西入)は正式には紫雲極楽院光勝寺という。この寺は踊躍念仏を始めた空也開基としている。空也堂は京都における民間念仏僧の本拠地として知られており、半僧半俗で法衣を着、鉦・びょうたたいて念仏を唱え、また太鼓の曲打ちと、念仏詠唱に技巧を加えて芸能的六斎念仏となった。とくに江戸中期以降、能楽・歌舞伎・獅子舞・雑芸などを取り入れ、念仏詠唱の他に道成寺・頼光・安達ヶ原・和唐内などの曲目を入れて芸能化し、民間芸能として伝承されるようになった。京都の盆をいろどる吉祥院六斎、久世、桂の六斎などはその好例である。 ③高野山系。すでに鎌倉時代、覚鑁かくばん・聖心・明遍らによって真言念仏が行われており、一遍高野山踊り念仏融通念仏を勧めたことがあり、また高野山に隠棲した念仏者たちの念仏三昧と、回国念仏勧進によって念仏信仰が高まった。こうした高野聖たちの高声念仏踊り念仏の影響によって高野山周辺の大和・紀州の各地に六斎念仏が残されるようになった。


【参考】田中緑紅『六斎念仏と六斎踊』(『緑紅叢書』、京を語る会、一九五九)、五来重『民間芸能史』(『五来重著作集』七、法蔵館、二〇〇八)、『京都郷土芸能誌』(京都市、一九五三)、『光福寺文書』、『浄土常修六斎念仏興起』、佛教大学民間念仏研究会編『民間念仏信仰の研究 資料編』(隆文館、一九六六)、『日本庶民生活史料集成』一七(三一書房、一九七二)


【参照項目】➡斎日干菜寺系六斎念仏光福寺空也堂高野山


【執筆者:成田俊治】