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一遍

提供: 新纂浄土宗大辞典

いっぺん/一遍

延応元年(一二三九)二月一五日—正応二年(一二八九)八月二三日。時宗宗祖。幼名は松寿丸。いみな智真証誠しょうじょう大師。捨聖すてひじり遊行上人とも呼ばれる。伊予国の豪族河野通信みちのぶの五男通広みちひろ出家して如仏)の二男として誕生する。一〇歳で母に死別し、父の命をうけて出家、随縁と名のる。建長三年(一二五一)太宰府に赴き、証空弟子聖達しょうだつ(「せいだ」とも言われる)、華台けだいに師事し智真と名を改め、一二年間浄土教を学ぶ。弘長三年(一二六三)父如仏の訃報を受け故郷伊予へ帰り、還俗して真俗二諦の生活を送ったといわれている。文永八年(一二七一)の春、信濃善光寺に参詣し、「二河白道図」を写し帰国、その秋より三年間、伊予の窪寺くぼでら(愛媛県松山市)の閑室で念仏三昧修行をする。同一〇年菅生すごうの岩屋に参籠。同一一年、伊予を出発し遊行の旅に出、大坂四天王寺で「念仏札」を配りはじめる(賦算ふさん)。高野山を経て、熊野本宮へ参籠。その間熊野権現から「信不信、浄不浄の区別なく、『念仏札』を配るよう」神勅しんちょくを受けたとされ、この時、「念仏を称えるものは極楽往生し、その人は白蓮華のように清らかである」という意味の「六十万人頌」を作った。これより「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」と刷った念仏札を配り、智真一遍と改めた。以後、踊り念仏をはじめ、一処不住の生活は一六年間におよんだ。正応二年兵庫の観音堂において往生。世寿五一歳。最後のことばは「没後の事は、我門弟におきては葬礼の儀式をとゝのふべからず。野にすてゝけだものにほどこすべし」(『一遍聖絵』岩波文庫、一四二)であった。在地の人びとが荼毘に付し、墓所を荘厳したという。また、亡くなる二週間前の八月一〇日の朝に、所持していた一切の持物を焼き捨てたという。


【資料】『一遍聖絵』(清浄光寺蔵)


【参考】『定本時宗宗典』下(時宗宗務所、一九七九)、浅山円祥『一遍聖絵・六条縁起』(山喜房仏書林、一九五二)、金井清光『一遍と時衆教団』(角川書店、一九七五)


【参照項目】➡一遍上人絵詞伝一遍聖絵


【執筆者:長島尚道】