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「鵜飼隆玄」の版間の差分

提供: 新纂浄土宗大辞典

 
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2018年3月30日 (金) 06:20時点における最新版

うがいりゅうげん/鵜飼隆玄

明治三八年(一九〇五)四月二六日—平成二年(一九九〇)五月一八日。真蓮社証誉空阿。あざなは夢庵。岐阜県山県郡高富町(現・山県市)に、高木粂吉の三男として生まれる。師僧は大阪専称寺・祖父江隆音。昭和四年(一九二九)佛教専門学校卒業後、同六年二月鵜飼徳瑞の法嗣となって鵜飼家に入籍し、滋賀福泉寺に晋董。戦後、教化活動の一環として同地に祇王明照保育園を設立し、児童福祉事業を開始した。これより先、縁に応じて知恩院に入り、浄土宗本派設立に際し活躍。同二三年には知恩院社会部長に就任した。法然七五〇年大遠忌浄土宗浄土宗本派とにおいて共修されるなど合同の気運が熟するに及び、千々和宝天知恩院執事長と共に和解に尽力し、その交渉に当たる。合同後は小林大巌内局のもと、同三七年三月に総務局長、同三九年一二月には教学局長を歴任し、同四〇年七月には知恩院執事長に就任。同四一年六月、「念仏おてつぎ運動」を提唱して全国に展開し、その道場として同四七年四月、和順会館を建設した。知恩院執事長を通算五期一八年、宗議会議員を一三期務め、知恩院の施設充足と教化活動の刷新に献身し、またその間、昭和四二年(一九六七)五月には敦賀西福寺に転董して寺内の復興に努め、三門を再建落成した。兼ねて大正大学華頂学園上宮学園の理事長を歴任して教育事業を行う傍ら、平安養育院理事長・祇王明照保育園園長を務めるなど、社会福祉事業にも足跡を残す。諸役を退いた後は、病をえて静養に努めたが、平成二年五月遷化。世寿八五歳。昭和五六年(一九八一)の喜寿のおり、銀杯を下賜されたが、その際、著書として『野僧のくりごと』(鵜飼隆玄師喜寿賜杯祝賀会、一九八一)が刊行された。


【執筆者:鵜飼光昌】