捨世派
提供: 新纂浄土宗大辞典
しゃせいは/捨世派
天文年間(一五三二—一五五五)の称念を祖とし、寺院の俗化や僧侶の形骸化に慨嘆し、法然の念仏思想に立ち返ろうと静閑な地に道場を設け、厳粛な清規のもとで専修念仏一行に励み、その興隆につとめた僧侶達のこと。捨世とは「出家中の遁世にして真の出家なるを捨世とは名付たるなり」(『称念上人行状記』浄全一七・六七八上)とあるように「出家中の遁世」ということが本来の意味であるが、浄土宗においては法然が叡山で黒谷に遁世したことに由来する。つまり、念仏専修の為に隠遁生活を選んだ僧達を後に総称として捨世派と呼ぶようになった。首唱者である称念は世の名利を嫌忌して、天智庵や専称庵などの独自の草庵を設け、念仏の道場とし、ついには法然御廟の畔に一心院を開いた。後にこの一心院は捨世地の本山とされる。江戸期に入るとその活動が盛んになり、
・徳本流(東京一行院、愛知九品院)徳本、徳住、徳因、本察
などが捨世主義者として挙げられるが、彼らの捨世の姿は隠遁を中心とする者や、学問を中心とする者、念仏を中心とする者など様々であるため、形式上、いくつかの流れに区別される。しかし、その根本には本願念仏口称一行があって、その上での分化に他ならない。また隠遁生活は専修念仏のためであり、それ故、隠遁生活の中でも一定の清規を設け、厳粛な風儀を保つ者が多かった。このため同時期に起こった興律派(浄土律)との関係は深い。また、捨世派そのものの規律や規定は定められていないが、単なる隠遁念仏者を指すのではない。捨世派僧の多くは宗祖法然の精神を念仏を通して民衆に教化した功績も大きい。自らの隠遁念仏に終始するのみならず、民衆への教化も怠らなかったことは捨世主義者達の大きな特徴と言える。
【参考】深貝慈孝「浄土宗捨世派における理論と実践」(『中国浄土教と浄土宗学の研究』思文閣、二〇〇二)
【参照項目】➡興律派、捨世地、称念、弾誓、澄禅、忍澂、無能、関通、法岸、法洲、法道、以八、学信、穏冏、徳本、徳住
【執筆者:兼岩和広】