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十夜会

提供: 新纂浄土宗大辞典

じゅうやえ/十夜会

十日十夜にわたって特定の期間行う念仏会のこと。十夜法要御十夜おじゅうやともいう。『無量寿経』の「ここにおいて善を修すること、十日十夜すれば、他方諸仏の国土において、善を為すこと千歳するに勝れたり」(聖典一・二七七/浄全一・三二)の文に基づいて修する。また『阿弥陀鼓音声王陀羅尼経』には「若し彼の仏の名号を受持することあらんに、その心を堅固にし、憶念して忘れざること十日十夜、散乱を除捨し、精勤して念仏三昧を修集し、彼の如来の常恒に安楽世界に住することを知り、憶念相続して断絶せしむることなかれ。…彼の仏を礼敬し、正念を堅固にして、悉く散乱を除き、若し能く心をして、念念に絶えざらしめんに、十日の中に必ず彼の阿弥陀仏を見る」(正蔵一二・三五二中~下)とある。この経文中の善根とは法然の『選択集』一に「念仏は是れ大善根なり」「念仏は是れ勝善根なり」と述べるように念仏であることは明らかである。十夜会は、陰暦一〇月五日の夜から一五日朝までの十日十夜にわたる行事であったが、現在は五日、三日、一日に短縮して勤めることが多い。この法要は『真如堂縁起』によると、一五世紀前半伊勢守貞国が願を立て真如堂に三日三夜参籠して出家することを志したが、最後の日の明け方、僧の夢告によって思いとどまった。翌日瑞夢のように兄貞経が失脚して貞国が家督を継ぎ、その後大いに繁栄した。このことが将軍足利義教に聞こえ、その命により三日に続いて七日七夜の念仏修行したことが起源である。なお、貞国の真如堂参籠は、その直前に刊行された向阿証賢三部仮名鈔』の影響と考えられる。その後、鎌倉光明寺九世祐崇は、明応四年(一四九五)後土御門天皇に召されて、宮中で『阿弥陀経』の講義をし、念仏利益として上記の経文の事を講じ、また真如堂式衆を率いて引声阿弥陀経ならびに引声念仏法要導師を勤めた。それ以来勅許により十夜法要光明寺で行われるようになった。その後、広く浄土宗の行事となり、鎌倉光明寺引声念仏の十夜、鴻巣勝願寺塔婆十夜、滝山大善寺諷誦文十夜として知られ、これらは関東三大十夜と称される。双盤をならし、諷誦文回向を行う寺院も多く、農村では昔ながらのお籠りをするところがある。新穀を仏前に供え、これを粥にして夜半に参詣者へ出すところも多い。これを十夜粥というが、十夜の法要には亥の子、十日夜などの収穫祭民俗が伝えられている。十夜に牡丹餅を本尊に供えるのはその一例である。『法要集』には、十夜会および十夜会古式の差定が示されている。


【資料】『初学抄』(昭法全)、『滑稽雑談』、『東都歳事記』、『難波鑑』


【参考】佛教大学民間念仏研究会編『民間念仏信仰の研究』(隆文館、一九六六)、竹田聴洲「十夜念仏と亥の子・十日夜の行事」(『仏教論叢』七、一九五八)、金子寛哉『一匙の想い』(文化書院、二〇〇八)


【参照項目】➡引声念仏引声阿弥陀経諷誦文


【執筆者:金子寛哉】