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貞極

提供: 新纂浄土宗大辞典

ていごく/貞極

延宝五年(一六七七)四月二九日—宝暦六年(一七五六)六月二日。一蓮社立誉。道号は離文。また四休庵ともいう。江戸時代中期の浄土宗の学僧。山城国室町蛸薬師(京都市中京区)の豪商、大西氏の長子として生を受け、幼名は菊松といった。生後まもなく生母を喪い、継母に養育される。八歳のとき、世を儚んで出家の志を発するが、父の許しを得られなかった。元禄一六年(一七〇三)、二七歳にして本意を遂げ、洛東岡崎の厭求のもとで剃髪受戒し、貞極と称するに至った。ついで師命を受けて小石川伝通院了因のもとに遊学し、両脈を増上寺門周より相承する。伝通院での修学を継続し、厭求の許しを得て帰洛した。平生より隠遁の志があり、上人号の綸旨りんじを賜って官寺に住することを望まなかったという。正徳三年(一七一三)、厭求遷化を契機として小石川の直入庵に隠棲し、ほどなく五畿中国九州を遊歴した。同五年、岡崎の厭求庵に至り、先師の三回忌法要を追修する。翌年には江戸へ戻り、『法の草芝』二巻を著した。ついで三河島の通津庵や根岸の四休庵などを道場としながら多数の道俗を教化檀林学侶の門弟は四百八十余人を数えたとされる。中年に差しかかった頃から、日課念仏八万遍、六時但念仏、前後十二礼を実践。戒を持することを重んじ、享保一〇年(一七二五)に、『円戒二掌記』一巻(続浄一二)を著した。同一五年、『蓮門住持訓』一巻を撰述し住職の心得を示した。延享元年(一七四四)、『五重廃立鈔』三巻を著し、五重伝書の問題を論ずる。自身は質素を心がけ、貧困の僧侶や廃寺の興立を支援し、親族義故の忌日には、自ら経行し貧者や病者らに賑救していたという。毎年、九〇日間、夏安居げあんごを営み四止禁足した。『選択集』の講説を行うこと百余遍であり、宝暦三年(一七五三)には『選択集九門玄談』一巻(浄全八)を撰述している。宝暦六年、永訣のために道俗を勧誡した後、世寿八〇歳で遷化した。隠遁以来、著された八十余部百五十余巻の書の中には、同時代の義山敬首きょうじゅ関通大我らに対する駁論も多くあり、宗学史上、極めて重要である。


【資料】『貞極大徳伝』(浄全一八)、『小石川伝通院志』(浄全一九)、『続日本高僧伝』四(仏全一〇四)、『浄土宗経論章疏録』下


【参考】井川定慶「四休庵貞極の著述攷」(『芸文』二〇—一、一九二九)、角田俊徹「四休庵貞極老師伝」(『四休菴貞極全集』下、西極楽寺、一九三二)


【執筆者:加藤弘孝】