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敬首

提供: 新纂浄土宗大辞典

きょうじゅ/敬首

天和三年(一六八三)—寛延元年(一七四八)。釈尊当時の比丘の在り方を理想と掲げた四分兼学の持戒念仏者であり、江戸期の浄土宗革新運動における興律派の一人。仏教実践の原点回帰を志向して自誓受戒をし、律の復興を唱える。江戸神田に生まれ、一五歳で増上寺岸了のもとにおいて剃髪し祖海と名乗る。一九歳で江戸を離れ、京都鹿ヶ谷忍澂、近江安養寺戒山のもとで諸宗の法門を修学。南都に遊学し諸宗の学業に通達したが、元の師匠岸了に面謁した際に説の新しさを「時勢に合わず他に説くべきではない」と深く制誡されている。のち戒山を証明師に自誓受戒し、大乗比丘として名を敬首と改める。閑寂の地で三万の日課、六時勤行を精修していたが、岸了祐天の勧めで花俣の正受院に入り、ここで定めた規則が浄土宗律院の模範とされていった。享保年間(一七一六—一七三六)に正受院弟子に譲り下谷に移り、その居を瓔珞庵と号す。貴賤を問わず二千人余に戒を授けた。その教えは、釈尊を本師として龍樹世親の二大士を依怙と据えており、その他は諸宗各祖師といえどもその誤謬を正し、その非を排斥している。その教えは、聴く者を驚嘆させ、徒弟にはそのすべてを会得することは難しいものであったという。寛延元年夏の初めより病が悪化し、弟子たちに滅後の遺嘱を託して遷化する。世寿六六歳。主な著述には円頓戒受持のありようを述べた『瓔珞和上説戒随聞記』(海雲筆)があり、また『天台戒疏講述』五巻、『当麻曼荼羅正義』四巻、『阿弥陀経随聞記』『梵網経精義』『即心念仏摘欺ちゃくご説』各二巻、『即心念仏摘欺説続』『一枚起請親聞録』『放生会儀軌』『地蔵菩薩念誦儀軌』『梵網経玄談』『典籍概見』各一巻。その他『八斎戒聞書』『無量寿経五智要言』『説話集』等がある。


【資料】『略伝集』「敬首和上略伝」(浄全一八)


【執筆者:渋谷康悦】