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般舟三昧

提供: 新纂浄土宗大辞典

はんじゅざんまい/般舟三昧

現在諸仏が悉く行者の前に立つという三昧、あるいは、行者が現在諸仏の面前に立つという三昧のこと。『般舟三昧経』チベット語訳の文脈からすると後者の意味となるが、中国・日本の伝統的な解釈では主として前者の意味を取る。Ⓢpratyutpanna-buddha-saṃmukha-avasthita-samādhi。般舟般三昧という音写もある。現在諸仏悉立三昧菩薩思惟諸仏現前三昧、現在仏面住定意などと訳す。また常行三昧とも言う。『正蔵』所収の『般舟三昧経』三巻本には、経題に「般舟三昧経巻上 一名十方現在仏悉在前立定経」とあり、同経の巻上聞事品では「仏、颰陀和ばつだわ菩薩に告げたまわく、一の法行あり、常に当に習持すべし、常に当に守るべし。また余の法には随わず。諸の功徳の中に最第一なり。何等をか第一の法行となすや。是の三昧を現在仏悉在前立三昧と名づく」(正蔵一三・九〇四中)と説く。『首楞厳三昧経』では「第八の菩薩地に入り已りて、諸仏現前三昧を得」(正蔵一五・六三四上)として菩薩が第八地において得られる三昧であるとする。また『大智度論』三三では、「問うて曰く、般舟経に説くが如きは、般舟三昧力を以ての故に、未だ天眼を得ざると雖も、能く十方現在諸仏を見る。此の菩薩、天眼を以ての故に十方諸仏を見る。何等の異なり有るや。答えて曰く、此れ天眼は隠没無記にはあらず。般舟三昧は欲を離れたる人、未だ欲を離れざる人、俱に得。天眼は但だこれ欲を離れたる人のみ得。般舟三昧は憶想分別して常に修し常に習うが故に見る。天眼は神通を修して得」(正蔵二五・三〇六上)と説き、天眼通を得て諸仏を見るのではない、としている。この三昧を得るための行法として、『般舟三昧経』上の行品では阿弥陀仏を念ずることを説き、また同四事品では「菩薩、復た四事有りてく是の三昧を得。何等をか四とす。一には世間の思想有ること指を相い弾ずる頃の如きも得ざること三月。二には三月、指を相い弾ずる頃の如きも臥出することを得ず。三には経行して休息を得ず、坐することを得ざること三月、其の飯食ぼんじきと左右を除く。四には人の為に経を説かんに、人の衣服、飯食を望むことを得ず。是れを四とす」(正蔵一三・九〇六上)と、三ヶ月間、指を弾く間の時間でさえも、世間の思想をしない、臥出しない、食事と排泄の時を除いて、歩き回って坐らない、他人の為に経を説き、そして衣服や食事などの利得を求めない、という四事を説いている。廬山慧遠は同志らとともに般舟三昧を実践し、智顗は『摩訶止観』において四種三昧を説く中で、常行三昧として般舟三昧を用い、十方の現在諸仏が行者の前に立つ三昧である、と解釈している。また九〇日間、身は常に歩み、口は阿弥陀仏の名を称え、心は常に阿弥陀仏を念じて休息することがないようにする、とも説いている。善導は『般舟讃』において、「また問いて曰く、般舟三昧楽とはこれ何の義ぞや。答えて曰く、梵語には般舟と名づけ、此には翻じて常行道と名づく。或いは七日、九十日、身行無間なる総名なり。三業無間なり、故に般舟と名づく。又た三昧と言うは、またこれ西国の語、此には翻じて名づけて定とす。前の三業無間に由って心至って感ずる所、即ち仏境現前す。正境現ずる時、即ち身心内悦す。故に名づけて楽とす。また立定見諸仏と名づく。応に知るべし」(浄全四・五三〇上正蔵四七・四四八中)と説いている。このように善導般舟三昧行者の前に諸仏が現れる三昧解釈している。


【参照項目】➡般舟三昧経


【執筆者:曽和義宏】