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浄土宗の社会福祉事業

提供: 新纂浄土宗大辞典

じょうどしゅうのしゃかいふくしじぎょう/浄土宗の社会福祉事業

「社会福祉事業」の用語や概念は第二次世界大戦後のものであるが、浄土宗ないし宗教と福祉との関わりからは、むしろその前史として、明治以降の慈善事業や救済事業、大正期中葉における日本の社会事業成立への寄与などを欠いてはならない。また明治前期の浄土宗僧侶による慈善活動には、念仏信仰とともに前代からの戒律布施等の実践を受け継ぐものがあるとみられる。さらにその鉱脈をたどれば、中世以来の法然浄土教の継承者たちの信仰と実践にまで至る。明治前期にあっては、明治一二年(一八七九)仏教界の代表的な救育事業たる福田会育児院には福田行誡浄土宗僧侶の関係もあるが、同一九年の久保田量寿による私立同善簡易小学校(貧児学校、のちに隣保事業)、同二二年岡崎の昌光律寺深見志運による額田慈無量講(窮民救助)、これを継承した杉山大運、同二四年濃尾大震災などでの颯田本真による慈善救済が知られる。後期を代表するのが、宗祖七〇〇年遠忌事業として渡辺海旭らが設立した浄土宗労働共済会である。大正期には、一宗の社会事業の組織化や制度化が一段と進んだ。たとえば大正三年(一九一四)(財)浄土宗報恩明照会を組織して事業の推進を図り、同九年に第一回浄土宗社会事業協議会を開催、同一〇年宗務所に社会課を新設するなどした。一方、社会事業の人材養成についても、上記の渡辺や矢吹慶輝長谷川良信らの尽力もあり、大正七年(一九一八)、他大学に先がけ宗教大学社会事業研究室を開設。爾来、斯界に幾多の人材が輩出し、戦前の一時期、「社会事業宗」の名をほしいままにした。昭和初期までの当時の状況は、長谷川良信浄土宗社会事業概観」(『浄土宗社会事業年報』浄土宗務所社会課、一九三四)に詳しい。昭和戦前期は「一寺院一事業」が叫ばれ、ことに浄土宗では隣保事業(セツルメント)が盛んであった。かくて戦後になると、開宗八〇〇年を期に、福祉事業の促進を掲げて昭和四九年(一九七四)、浄土宗社会福祉事業協会(現・浄土宗社会福祉協会)を設立。しかし戦後は社会福祉の公的責任性のみが先行したため、かえって宗門福祉事業の主体性・独自性は見えにくいものとなっている。他方、地域福祉の時代に入り、寺院にその拠点としての役割が期待されるにしたがって、戦前の寺院社会事業の批判的継承が論じられてもいる。


【資料】『浄土宗社会事業年報』(浄土宗務所社会課、一九三四)、『浄土宗社会事業一覧』(同、一九三九)、『浄土宗社会福祉事業年報』三(浄土宗社会局、一九七四)


【参考】長谷川匡俊編『近代浄土宗の社会事業—人とその実践—』(相川書房、一九九四)、同『浄土宗と福祉』(浄土宗社会福祉事業協会、一九九九)


【参照項目】➡同善会浄土宗労働共済会浄土宗ともいき財団浄土宗社会福祉協会


【執筆者:長谷川匡俊】