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在家・出家

提供: 新纂浄土宗大辞典

ざいけ・しゅっけ/在家・出家

在俗の人と、家を出て仏門に入った人(僧)。在家に相当する語ⓈgṛhasthaⓅgahaṭṭhaは「家に住む」という形容詞で、世俗の生活をすること、あるいはそれから派生する名詞として、その人を表し、居家、居士、世人などとも訳す。広義には一般の人を意味するが、狭義には世俗の生活をしながら仏教帰依した信者優婆塞うばそく(男性信者Ⓢupāsaka)・優婆夷うばい(女性信者Ⓢupāsikā)を意味する。もともと仏教では人が仏陀の教えを信仰し、布薩ふさつ日に八斎戒を守っても、それは広義の在家であり、狭義の在家ではない。優婆塞・優婆夷という在家の信者になるためには、三帰依、すなわち、仏(仏陀Ⓢbuddha)、法(仏陀の教えⓈdharma)、僧(仏教僧団Ⓢsaṃgha)に帰依することを比丘びくの前で表明し、さらに生涯の間、五戒を保つことを誓わなければならない。それに従って正しい生活を送ることで来世も天界や人間界に生まれ、仏道に入る機会がある生天を求める。

このような在家に対して出家(ⓈpravrajitaⓈpravrajyāⓅpabbajitaⓅpabbajjā)は、世俗の生活を離れるために家を出て修行の道に入ること、また入った人をさす。出家人、道人、沙門ともいわれ、一般には僧侶の同義語として用いられる。もともとバラモン教をはじめとするインドの諸宗教で行われていたもので、バラモンが第三生活期の林住者となるときや、第四生活期の遊行者となることを「(修行者として家から)出立する」(Ⓢpra√vraj)といい、その意味を踏まえて出家という。仏教出家者には二〇歳以上という制限のもとに、出家の生活規範である僧団規則を定めた律(Ⓢvinaya)に従うための具足戒(Ⓢupasaṃpadā)を受けた男性修行僧である比丘(Ⓢbhikṣu)と、女性修行僧の比丘尼びくに(Ⓢbhikṣuṇī)がおり、別々のサンガ(僧団Ⓢsaṃgha)を形成している。彼らはそこで阿羅漢悟りを目指して修行生活を送る。この比丘・比丘尼の僧団に在家の信者である優婆塞・優婆夷をあわせて四衆と呼ぶ。また、比丘・比丘尼の僧団には、その年齢に達しない一五歳以上二〇歳未満の男子見習い僧である沙弥しゃみ(Ⓢśrāmaṇera)、同じく女子見習い僧である沙弥尼しゃみに(Ⓢśrāmaṇerī)が属している。さらに沙弥尼に限っては一八歳以降、具足戒を受けて比丘尼となるための準備僧である正学女しょうがくにょ(Ⓢśikṣamāṇā、式叉摩那しきしゃまな)になる審査を経なければならない。これらのグループを出家五衆といい、在家の信者である優婆塞・優婆夷とあわせて七衆と呼ぶ。

このように出家は律(僧団規則)のもとで阿羅漢悟りを、在家は日常に三帰五戒を保つことで生天を目指したのに対して、大乗仏教出家、在家ともに仏陀となることを目指す者(菩薩Ⓢbodhisattva)であるという新たな方向を導き出し、両者の隔たりを埋めた。在家の菩薩出家菩薩と目的を同じくし、経典の供養・受持・読誦などの日常的な修行の実践者として仏道に向かう者となった。もちろん伝統的な出家至上主義は根強く残っており、出家を優位に置くだけでなく、大乗経典には飛び抜けて完成度の高い出家菩薩が描かれ、仏道を実践する者の理想像とされたが、一方では維摩居士勝鬘夫人しょうまんぶにんのように在家でありながら、出家を超える主人公が描かれる例も現れた。律の伝来がなく、先に大乗仏教がもたらされた日本においては、本来出家規範であるべき「律」と自己の倫理規範である「戒」の区別が曖昧になり、特に菩薩が守るべき大乗戒の精神そのものに重きを置いたために、インド仏教におけるような出家、在家の定義をあてはめることは難しい。法然出家でなければ往生ができないかという問いに対して、「在家ながら往生する人多し」(『一百四十五箇条問答』聖典四・四六七/昭法全六六二)とし、「ひじりで申されずばを設けて申すべし。妻を設けて申されずば聖にて申すべし。住所にて申されずば流行るぎょうして申すべし。流行して申されずば家に居て申すべし」(『諸人伝説の詞』聖典四・四八七/昭法全四六三)として、凡夫なるわれわれが人として生きるなかでの念仏の実践に在家・出家の区別のないさまを伝えている。


【参考】佐々木閑『出家とはなにか』(大蔵出版、一九九九)


【執筆者:吹田隆道】