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阿羅漢

提供: 新纂浄土宗大辞典

あらかん/阿羅漢

仏道修行における最高位の一つで、供養に値する聖者のこと。ⓈarhatⓅarahatⓉdgra bcom。阿羅漢はarhatの変化形であるarhanの音写語とされる。阿羅訶や羅漢などとも音写される。如来十号の一つ。四向四果においては阿羅漢向・阿羅漢果として立てられる。阿羅漢とは、供養を受けるにふさわしい聖者の意味であり、それゆえ応供と訳され、また阿羅漢には学ぶべきものが何もないから無学とも訳される。阿羅漢には①殺賊②応供無生の三義があり、①殺賊とは、煩悩という賊を殺していること、②応供とは、供養を受けるにふさわしいこと、③無生とは、輪廻を離れ再び生を受けないこと、を意味する。阿羅漢(Ⓢarhat)とは②応供を意味する語であるが、そのチベット訳dgra bcomが敵を打ち負かすことを意味するように、①殺賊と③無生解釈からすれば認められるものである。原始仏教において阿羅漢は、覚ったものを意味する語であり仏の同義語として用いられた。たとえば『過去現在因果経』三や『根本説一切有部毘奈耶破僧事』六では、初転法輪の後に六人の阿羅漢が世にあったことを述べ、その第一を釈尊とすると説いている。すなわち初転法輪を受け解脱した五人の比丘びくと、説法者であり仏である釈尊が同じ阿羅漢とみなされている。しかし部派仏教では、阿羅漢と仏とは異なるものとみなす。多くの仏道修行者の目指す境地は阿羅漢であり、これは修行によって煩悩を断ち切ることで到達する境地であるが、仏とは異なるものである。仏は煩悩を断ち切ることに加えて、大悲などの利他心を具えており、部派仏教において菩薩から仏になる道を歩む者は、極めて特別な存在である。大乗仏教では、阿羅漢縁覚菩薩の対立概念として、自利のみの立場を批判するが、一方で如来の別称として応供(=阿羅漢)を認めている。総じていえば、仏は阿羅漢を含む概念であるが、すべての阿羅漢が仏であるとはいえない、ということである。また阿羅漢羅漢ともいわれ、日本においては鎌倉期から禅宗を中心に信仰の対象となった。このような羅漢には、十六羅漢十八羅漢五百羅漢などがあり、これらの画像や彫像が作られ、さらに羅漢講式などの法要によってこれらの羅漢供養がなされた。


【参考】水野弘元『仏教要語の基礎知識』(春秋社、一九七二)


【参照項目】➡四向四果十号十六羅漢十八羅漢羅漢講式羅漢像五百羅漢


【執筆者:石田一裕】