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吉岡呵成

提供: 新纂浄土宗大辞典

よしおかかじょう/吉岡呵成

元治元年(一八六四)一一月二日—明治三八年(一九〇五)一〇月一〇日。尭蓮社智誉海阿。あざなは徳舜。沛雨はいう、南山、男山人とも号す。明治期に活躍した布教家。播磨国明石に生まれ、同地光明寺において徳巌(美作誕生寺三一世)を師として得度、明治九年(一八七六)、神奈川成仏寺の吉岡徳栄に就いて剃髪染衣。同一四年京都八幡正法寺松濤舜成の附弟となる。同一五年には東部宗学校本校の教授に就任した。同二一年師跡正法寺三五世住職。傍ら『仏教新運動』『仏教公論』を刊行して仏教界の時事を論じた。同二四年三月、京都寺町三条の天性寺内に浄土布教会を発足、堀尾貫務を会長兼講授長として自身も講授師となり、近代浄土宗布教伝道の礎を築き、後進の伝道師育成に努めた。同布教会は同二六年に浄土布教講習会と改称、一宗の共立となる。同会は東京小石川伝通院内に伝道講習院が設立されるにあたって同三一年五月の卒業試験執行の後に閉鎖した。また望月信亨川合梁定らと共に宗政の行く末を案じ、教学一致、教化の純正を標榜して明治三〇年(一八九七)二月宗粋社を創設し、雑誌『宗粋雑誌』『宗粋法話』を発刊。同年六月公会議員に当選、七月に軍隊布教師。翌三一年、第五大教区視教。また同年教学院議員の任に就き、同三六年には公会議員に選出され、議長も務めている。世寿四二歳。著書に『法輪』、『金蓮』、『浄土宗便覧』前・後編、『説教帷中策続編』前・後編、『かちどき』、『小消息講話』、『点睛録』、『教家必携文苑説林』。没後の大正三年(一九一四)に遺稿集として発行の『沛雨遺書』がある。


【参考】大橋俊雄『浄土宗人名事典』(斎々坊、二〇〇一)、吉岡呵成『点睛録』(宗粋社、一九〇六)、『浄土教報』


【参照項目】➡浄土布教会


【執筆者:八木英哉】