操作

隠れ念仏

提供: 新纂浄土宗大辞典

かくれねんぶつ/隠れ念仏

南九州の薩摩藩、人吉藩の真宗禁制下において、ひそかに守り伝えられてきた真宗信仰のこと。人吉藩では一五〇〇年代中頃から、薩摩藩では一五〇〇年代末から明治九年(一八七六)にいたる約三〇〇年間にわたり真宗が禁止され、薩摩藩の場合ではキリシタン信者真宗門徒取り締まりのため、七、八年ないし一四、五年ごとに宗門手札改めが行われた。信者組織である講は、広い場合には数箇郷におよぶ場合もあり、本山から下賜された御講仏を講内の各村落で持ちまわった。また講からは本山に志納金を納めていたという。講は講間こままたは御座おざと呼ばれる集団からなっており、その代表者は番役といい、読経説教のできる者がなり、一般門徒の指導にあたっていた。御講仏が回ってきた際には番役の家に安置するが、それ以外では番役個人の御内仏あるいは共有の仏像礼拝した。取り締まりの目を逃れるため細心の注意がはらわれ、門徒が集まって開かれる法座は深夜に営まれるのが通常であった。また住居の構造に擬装を施し、隠し仏間を設けたり、傘をすぼめた形に削った木の内部に名号を隠した「傘仏」、まな板のような薄い箱状のものに阿弥陀仏の絵像を秘した「まな板仏」などを作ったりした。しかし、時に役人に探知され大量の逮捕者を出すこともあった。嫌疑をかけられると、本尊の提出が命ぜられたほか、同信の自白が強要され、これには拷問が伴ったという。門徒であることが確定すると、重い者は死罪・遠島といった重罪が科せられ、軽い者は転宗することで許された。


【参考】米村竜治『殉教と民衆—隠れ念仏考』(同朋舎、一九七九)、森田清美『霧島山麓の隠れ念仏と修験』(岩田書院、二〇〇八)、『鹿児島市史』一(鹿児島市史編さん委員会、一九六九)


【参照項目】➡隠し念仏


【執筆者:名和清隆】