浄安寺
提供: 新纂浄土宗大辞典
じょうあんじ/浄安寺
一
さいたま市岩槻区本町。快楽山微妙院。埼玉教区№七四。当初は真言宗。東国八八〇郷の惣触頭であった。永正二年(一五〇五)増上寺五世天誉了聞が浄土宗に改宗した。慶長五年(一六〇〇)徳川家康下向のとき、当寺が一泊の御本陣を務め、同七年六二石三斗の御朱印を賜る。五世安誉虎角が川越蓮馨寺の感誉存貞と共に「檀林清規三十三箇条」を作り檀林教学に多大な影響を及ぼし、足立の三仏寺、常然寺ほか多くの寺院を開基する。二八世吉水玄信は増上寺七二世の法灯を継ぐ。
【資料】『浄土宗寺院由緒書』中(『増上寺史料集』六)
【参考】『浄土宗埼玉教区寺院名鑑』(一九九二)
【執筆者:稲岡正順】
二
長崎市寺町。東雲山理薬院。長崎教区№五。寛永元年(一六二四)開創。開山は誓誉了山。唐津浄泰寺三世本誉の従弟であった了山が、元和年間(一六一五—一六二四)に薬師如来を奉じて草庵を結び開蒼庵(常庵軒)と称した。のち、長崎奉行長谷川権六に請い、当地に浄安寺を開創した。本尊は阿弥陀如来。明治一〇年(一八七七)、本堂、庫裡等は西南戦争における傷病者の臨時病舎となった。一三世住誉津邦が作った巨大な婆羅門(長崎のハタあげのハタ〔凧〕の一種)は長崎名物の一つに数えられた。
【資料】『蓮門精舎旧詞』四二
【執筆者:金子孝司】
三
大分市荷揚町。泥洹山法性院。大分教区№三四。開山は行蓮社正(松)誉了心。三河国の生まれで少年のころ、岩槻浄国寺で修学・受戒した。当寺は、慶長六年(一六〇一)に松平一生が亡き父の菩提を弔うため、上野国群馬郡三之蔵において正誉を開山とし建てられた。その後、一生が下野国板橋に移るとともに当寺も移転。さらに元和三年(一六一七)にはその嫡男成重が三河国幡豆郡西尾に、同七年には成重が丹波国桑田郡亀山に、寛永一一年(一六三四)には成重の嫡男忠昭が豊後国大分郡高松にと、一生の親族が他所に移るとともに当寺も同様に移転した。正誉はその五ヶ所全てにおいて住職として仕えた。
【資料】『蓮門精舎旧詞』四〇、『浄土宗寺院由緒書』中(『増上寺史料集』六)
【執筆者:今井英之】