岩井智海
提供: 新纂浄土宗大辞典
いわいちかい/岩井智海
文久三年(一八六三)五月二七日—昭和一七年(一九四二)五月二四日。旭蓮社願誉無涯底阿。字は鈴泉。また雅号は一水。知恩院八〇世。布教師。福岡県糟屋郡山田村(現・久山町)猪野の安河内市三郎の次男。幼名岩吉。一七歳で福岡市東唐人町成道寺の岩井鏡誉に就いて得度、名を智海と改める。明治一五年(一八八二)、宗戒両脈を相承。日清戦争時には同二七年外征軍慰問副使の任に就き、慰問品一五万点を携えて従軍、戦地布教と戦没者法会の任務に当たる。翌年正使。六月帰朝、報告演説会を開く。小石川景久院、明治二六年(一八九三)に京都福知山法鷲寺、同三一年に大阪府堺市の大阿弥陀経寺(旭蓮社)を歴住した。この間、明治三〇年(一八九七)には浄土布教講習会の講授師に就任。大正一三年(一九二四)長崎の大音寺に転じ、伽藍の整備に努めた。同一五年には知恩院執事長に就任、昭和三年(一九二八)に退職の後は結縁五重・授戒会の勧誡等、近畿・九州を中心に布教に邁進した。同七年には清浄華院に晋董し、叙大僧正。在山中勅使門の落成を完遂した。同九年四月、増上寺に晋董するが、知恩院山下現有の遷化に遇い、同年一〇月、一宗の推挙により浄土宗管長、知恩院八〇世となる。同九年よりラジオ放送による法話・講義を行い、布教の新分野にも先鞭をつけた。同一二年、病により知恩院門跡を辞し、同一七年五月二四日旭蓮社にて遷化。世寿八〇歳。表葬にあたり、『鈴泉遺芳』が刊行された。著述書に『仏教音楽論』(法蔵館、一九九四)、『五重講説』上・下(浄土教報社、一九三一)、『旭の心』(立命館出版部、一九三四)、『自力更生と他力教』(大阪毎日新聞社、一九三四)、『二河白道の話』(大東出版社、一九三五)、『道しるべ』(旭蓮社、一九四〇)がある。
【参考】細井照道編『鈴泉遺芳』(知恩院寺務所、一九四二)、山田智旭『本朝廬山旭蓮社—今と昔—』(旭蓮社・大阿弥陀経寺、一九九一)、松浦行真『伝弘の生涯』(大東出版社、一九九一)
【執筆者:八木英哉】