尊照
提供: 新纂浄土宗大辞典
そんしょう/尊照
永禄五年(一五六二)—元和六年(一六二〇)六月二五日。行蓮社満誉九花。知恩院中興の祖、二九世。知恩院と一宗との発展の基礎を築いた。京都に生まれる。俗姓は橘氏、父は家貞。名家万里小路惟房の猶子となる。はじめ正親町天皇の皇子として養われ、元亀三年(一五七二)一一歳のとき廬山寺で剃髪、のち叔父にあたる知恩院二八世聡補の室に入り、一五歳で関東に遊学。生実大巌寺の虎角について修学。文禄四年(一五九五)一一月、青蓮院宮尊朝法親王の令旨を仰ぎ、三四歳で知恩院二九世を嗣いだ。尊照には経倫の才があり、徳川家康に図って慶長二年(一五九七)九月、関東諸寺掟書を鎌倉光明寺ならびに諸檀林へ発した。これは本末の分限を規定し、江戸時代浄土宗教団の制度的大成の端緒となった。また同年増上寺存応に諮り、香衣の執奏を知恩院の所管とし、一宗総本寺としての実を挙げようとした。教団制度を確立しようとする尊照の意図は一八年後の元和条目にも引き継がれた。元和元年(一六一五)七月、近世浄土宗の根本法規となる元和条目が制定された。これによって知恩院の浄土宗第一の本山としての地位が不動となり、知恩院に一宗統領としての宮門跡が置かれることになった。これよりさき徳川氏との関係も深まり、慶長七年(一六〇二)八月、家康の生母水野氏が伏見城で没すると、尊照は葬儀の導師を勤めた。翌年家康は寺領七〇三石余を寄進し、翌々年より生母の菩提のため寺院を拡張し、御影堂・衆会堂・方丈・庫裡などの諸堂舎の造営にとりかかり、前後七年を要して落成すると、同一五年尊照は駿府・江戸に赴いて、その造営を謝した。慶長一四年(一六〇九)僧正法印に任ぜられ、翌年香衣勅許を奏請。元和三年(一六一七)秀忠は家康の志を継ぎ、三門・経蔵を造営、二年後に竣工した。このように知恩院は尊照の代に一宗総本寺としての面目をよく保つに至ったが、それも尊照が経営の才を働かせ、徳川氏の帰依を得て、興隆の大業をなしとげるべく尽瘁するところがあったからである。
【資料】『鎮流祖伝』五(浄全一七)、『総系譜』中(浄全一九)、『知恩院旧記採要録』(仏全一一七)
【参考】『知恩院史』(知恩院、一九三七)
【執筆者:宇高良哲】