叡空
提供: 新纂浄土宗大辞典
えいくう/叡空
—治承五年(一一八一)—。房号は慈眼房。比叡山西塔北谷黒谷の遁世上人で法然・信空の師。『翼賛』三には、ある人の説として、坊門権大納言宗通の孫で治承三年(一一七九)二月没と伝えるが、出自も没年も根拠不明。出家や修学の詳しい経緯は判明しないが、『四十八巻伝』三には「叡空上人は、大原の良忍上人の附属、円頓戒相承の正統なり。瑜伽秘密の法に明らか」(聖典六・二三)であったと伝える。良忍から天台円頓戒を相承したことは各種の円戒譜からも明らかで、仁平四年(一一五四)に右大臣久我雅定の出家戒師を務めている(『兵範記』『台記』)。また密教にも詳しかったらしい。久安六年(一一五〇)一八歳の法然が遁世を志し叡空のもとへ入室した。同伝によると、叡空は若くして出離の心を自然とおこした「法然道理のひじり」だと讃えて法然房の房号を与え、実名は師匠の源光・叡空から一字をとり源空と命名したという。これ以後法然は比叡山を離れるまで長期にわたり黒谷を本拠として修学、叡空は円頓戒の法流を授け戒師としての地位を継承させた。保元二年(一一五七)には檀越藤原顕時の孫法蓮房信空が入室、法然の同朋となる。このほかの弟子に西仙房心寂がいる。一方、叡空と法然が思想面でしばしば衝突したことを法然伝は伝える。往生業の論争で、法然は称名がすぐれると主張し、叡空は観仏がすぐれるとして怒り、木枕(または足駄)を投げつけたという。また円頓一実の戒体に関して、叡空は心を戒体と見たが、法然は性無作の仮色が戒体だと主張して対立したという。これらの話がどこまで事実かは見極め難いが、のちに浄土宗を開く法然が師説に満足せず自己の立脚点を見出そうと苦闘している姿が伝わってくる。『玉葉』治承五年(一一八一)閏二月二三日条には、藤原邦綱の臨終に「黒谷聖人」が善知識を務めた記事がある。法然が臨終善知識になるとは考えられずおそらく叡空であり、これ以後の活動が見えないのでまもなく没したとも考えられる。そして入れ替わるように、文治五年(一一八九)八月一日から法然の九条兼実への授戒がはじまっている。『円頓戒法秘蔵大綱集』一巻は叡空の著ともされるが検討を要する。
【資料】『明義進行集』、『四十八巻伝』三・四・六
【参考】塚本善隆・三谷光順「法蓮房信空上人の研究」(『専修学報』一、一九三三)、菊地勇次郎「黒谷別所と源空」(『源空とその門下』法蔵館、一九八五)
【執筆者:善裕昭】