一念業成・多念業成
提供: 新纂浄土宗大辞典
いちねんごうじょう・たねんごうじょう/一念業成・多念業成
業成とは業事成弁の略であり、往生の当果を決定する意味。一念・多念業成とは一念による往生、多念による往生の当果を意味する。法然以前の平安期の浄土教は臨終の一念を重視し、正念来迎の立場から臨終業成を説く。しかし法然は、一念多念を問わない念仏観にたち、阿弥陀仏の来迎により自身の罪業を消除して臨終正念にいたるという来迎正念を説いた。このような法然の来迎観は、平生に善行を積み重ねた上で臨終の一念を迎えるという従来の念仏観を逆転させることになり、臨終業成から平生業成、そして一念にも多念にも偏執することのない念仏観にいたった。『禅勝房にしめす御詞』では「信をば一念にむまるととりて行をば一形はげむべし」(聖典四・四三三/昭法全四六四)として、一念を決定往生の業因とし、多念を信の相続と解釈した。しかし、門弟には法然存生の頃から一念多念の問題がみえている。『古今著聞集』によると、後鳥羽上皇が聖覚に「近来専修のともがら、一念多念とてわけてあらそうなるは、いずれが正とすべき」と質問し、聖覚は「行をば多念にとり、信をば一念にとるべき也」と答えている。『唯心鈔』は一念多念の偏執を誡めているが、空阿は一念多念の座に分け、隆寛も『一念多念分別事』を書き門弟の混乱を誡めている。一念業成・多念業成については法然門下の間でも、それぞれ異なった説がみられた。一念業成については一念を信あるいは行とみる立場があるが、幸西は仏智冥合、証空は三心領解、親鸞は信心獲得による信の一念で業事成弁するとした。隆寛は平生の多念相続を重視しながら業事成弁は臨終の一念に依り、平生の一念に業成するのは善導・懐感などの上根の人師としている。なお浄土真宗の覚如は、平生の一念に業事成弁が定まり、後の多念称名を報恩の念仏としている。一念業成・多念業成については、鎮西義でも名越派の尊観、白旗派の良暁が論争している。尊観は念仏の数の多少を論じず、三心具足の一念により業事成弁する(『浄土十六箇条疑問答』)とし、良暁は機根の不同により業事成弁には遅速があり、機根に随って一念から多念に至る(『浄土述聞鈔』)としている。尊観、良暁ともに一念を行と捉えるが、白旗・名越派では以後も論争が引き継がれ、聖冏は良暁の立場を受け継ぎ『浄土述聞口決鈔』に論じ、また名越でも良栄理本は、『十六箇条疑問答見聞』に一念業成の立場を詳述している。ただし、尊観の弟子慈観は『十六条事』において、両派の主張には本質的な相違はないと指摘する興味深い見解がみえる(続浄一〇・二下)。
【資料】『源流章』(浄全一五)、『唯信鈔』『一念多念分別事』(共に続浄九)、『古今著聞集』(『古典文学大系』)、『浄土述聞鈔』『十六箇条疑問答』『浄土述聞口決鈔』(共に浄全一一)
【参考】中沢見明『真宗源流史論』(法蔵館、一九八三)、住田智見『異義史之研究』(同、一九八七)、梶村昇「一念多念論」(浄土学二六、一九五七)、岸覚勇『浄土宗義の研究』(記主禅師鑽仰会、一九六四)、安井広度『法然門下の教学』(法蔵館、一九六八)、梶村昇『良忠上人門下の一念・多念業成論』(良忠上人研究会、一九八七)
【執筆者:伊藤茂樹】