住蓮
提供: 新纂浄土宗大辞典
2018年3月30日 (金) 06:26時点における192.168.11.48 (トーク)による版
2018年3月30日 (金) 06:26時点における192.168.11.48 (トーク)による版
じゅうれん/住蓮
—建永二年(一二〇七)二月九日。法然の直弟子。陸奥寺主実遍の息。建久三年(一一九二)の後白河法皇の追善には安楽房遵西とともに六時礼讃を修し、またともに東山霊山寺では別時念仏に加わっている。元久の法難においては、法然が門下を戒めた元久元年(一二〇四)の『七箇条制誡』に門下として名を連ねた一九〇名の一六番目に署名している。そして翌二年には藤原隆信の臨終に遵西と善知識をつとめている。続く翌三年二月になると、興福寺の五師三綱によって、法然をはじめ、成覚房幸西、法本房行空、遵西らとともに、罪科に処せられるよう訴えられた。このとき行空は法然に破門されたが、住蓮らは直接の科を免れたようである。ところが、同年一二月後鳥羽上皇が熊野臨幸の間、住蓮は、遵西と東山鹿ヶ谷で六時礼讃を唱えた。これによってさまざまな風聞のうちに、上皇の小御所の女房ら二人の女人が出家した。これらが上皇の怒りに触れ、翌建永二年二月遵西は京都六条河原で、そして住蓮は近江国馬渕(滋賀県近江八幡市)で斬罪となった。さらに法然らは流罪に処された。これが後に建永の法難といわれた。
【資料】東京大学史料編纂所編『大日本史料』四—八・建永元年二月一四日条(『三長記』)、同四—九・承元元年二月一八日条(『明月記』、『皇帝紀抄』、『愚管抄』)、『四十八巻伝』一二、三三(聖典六)
【参考】三田全信『成立史的法然上人諸伝の研究』(平楽寺書店、一九七六)
【執筆者:野村恒道】