元久の法難
提供: 新纂浄土宗大辞典
げんきゅうのほうなん/元久の法難
元久年間に起こった、南都北嶺が座主や朝廷に法然の専修念仏の禁止を求めた一連の動きのこと。三大法難の一つ。此岸での平等をも説く法然の専修念仏の思想は、その革新性のゆえに、また法然の教えを曲解した弟子の活動のために、北嶺延暦寺や南都興福寺から危険視されていた。それまでにも南都北嶺の衆徒が専修念仏の停止を求めて蜂起するかもしれないという噂があったが、ついに元久元年(一二〇四)の冬、延暦寺東塔・西塔・横川の三塔の衆徒らが大講堂前の庭に集まった。『四十八巻伝』三一では、鐘楼の鐘の音を合図に、四方から手に手に武器を持った裹頭頭巾の衆徒らが大講堂前に集まり幾重もの円陣が組まれている様子が描かれている。ここで衆徒らは天台座主真性に専修念仏の停止を訴えることを決めた。この動きに対し法然は一一月七日、法然から座主へ『送山門起請文』を送り偏執が本意でない旨を弁明した。また同日には門弟らに七箇条にわたる制誡を示し、それに弟子らは署判を添えた。これを『七箇条制誡』といい、署判者は信空をはじめとして一九〇名に及ぶ。聖光はこのときすでに京都を離れていたのでその名はない。『四十八巻伝』では、九条兼実が座主真性に手紙を送ったことでようやく衆徒の訴訟が止んだことが記されている。『送山門起請文』には、法然がこれまでにも比叡山に「起請」を送っていたことが記されており、この問題が根深いことを示している。ここで法然は「黒谷沙門」と名乗っているように、基本的には天台宗内部の問題であったが、専修念仏停止要求の動きは南都ヘも拡がった。元久二年一〇月、貞慶が執筆した『興福寺奏状』が八宗共同で朝廷に届けられた。朝廷はこれに対し、一二月二九日に宣旨を下し、専修念仏が問題となっているのは法然ではなく、門弟の「浅智」が原因であるから、念仏だけに偏執することは禁止するが、法然を処罰することはしないとした。この裁定に不満であった興福寺はさらなる訴えを行ったが、結局法然が処罰されることはなかった。
【参考】平雅行「建永の法難について」(『日本中世の社会と仏教』塙書房、一九九二)、中野正明「『七箇条制誡』について」「『送山門起請文』について」(『法然遺文の基礎的研究』法蔵館、一九九四)、上横手雅敬「建永の法難について」(『鎌倉時代の権力と制度』思文閣出版、二〇〇八)
【参照項目】➡建永の法難、嘉禄の法難、七箇条制誡、送山門起請文、興福寺奏状
【執筆者:伊藤真昭】